近現代の交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:53 UTC 版)
「琵琶湖疏水#舟運」も参照 近代に入り明治2年(1869年)に蒸気船一番丸(5トン12馬力の木造外輪船)が就航すると、ふたたび湖上交通が大量輸送を担うこととなる。既存の和船問屋や漁業者は蒸気船への妨害を行ったが、明治4年(1871年)には大津百艘船などの旧来の制度は解体された。1874年(明治7年)までに15隻の蒸気船が就航しており、汽船間の競争の激化により事故が続発するようになったため(後述)、1875年(明治8年)7月、滋賀県により汽船取締規則の通達が出されている。さらに翌1876年3月より大津湊町に汽船取締会所および同支所7箇所が設立され、安全航行のための会所規則が定められた。1880年(明治13年)7月には大阪 - 京都間の鉄道開通にともない長浜 - 大津間の鉄道連絡船の営業をめぐる争いが生じ、1882年(明治15年)には滋賀県の介入のもと3社合併により18隻を所有する太湖汽船会社が設立されている。翌1883年には日本初となる湖上鋼鉄船第一太湖丸(516トン)および第二太湖丸(498トン)も定期航路に就航し、1884年には長浜 - 敦賀間および長浜 - 大垣間の鉄道全線開通に併せてこちらも日本初となる鉄道連絡船が営業を開始した。1886年(明治19年)には紺屋関汽船・山田汽船が合併し湖南汽船会社が設立され、湖上交通は太湖汽船と堅田以南を営業区域とする湖南汽船の2大会社に統一されていくこととなる。 当初日本政府や太湖汽船によって30年程度と見積もられていた鉄道連絡船の役目は、予想外に早い1889年(明治22年)に東海道線が全線開通したことにより、わずか7年で終りを迎えることとなった。そのため後述するように、2大汽船会社は、貨客輸送から遊覧船へと営業の主力を切り替えていくことになる。さらに1931年(大正15年)には江若鉄道が今津まで開通し、以降は輸送に占める湖上交通の割合は低下したが、小地域間の湖上交通は1960年代まで続いた。なお、丸子船のような木造船は生業・生活に密接に関わるものとして大正ごろまで使われており、1880年(明治13年)の『滋賀県物産誌』に基づくと、輸送船・漁船・田船など少なくとも1万1100艘の船が存在していた。 近現代にも、琵琶湖を経由して日本海と太平洋や瀬戸内海を繋ぐ運河計画は、琵琶湖疏水の築造に携わった田辺朔郎による昭和初期の「大琵琶湖運河計画」や、高度経済成長期の「日本横断運河構想」など複数回立てられている。しかしモータリゼーションが進んだ結果、1964年(昭和39年)に琵琶湖大橋が、1974年(昭和49年)に近江大橋が架橋されたことが象徴するように、琵琶湖は水運の手段ではなく陸運の障碍物へと転じていった。
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