近現代のヘラート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:41 UTC 版)
1716年、ヘラートはカンダハールを都とするパシュトゥーン人(アフガン人)勢力の手に落ちた。これ以来、ヘラートを巡る紛争はイランを支配する王朝とアフガニスタンを支配する王朝の手に移る。1729年にはサファヴィー朝のナーディル・クリー・ハーン(ナーディル・シャー)によって奪還されるが、1747年にナーディルが暗殺されると、ナーディルの元部下のパシュトゥーン人アフマド・ハーン・アブダーリーことアフマド・シャー・ドゥッラーニーが自立して建国したドゥッラーニー朝(現在のアフガニスタン)の支配下に入った。 19世紀に入ると、アフガニスタンでのバーラクザイ朝への王朝交代を経て、イランのカージャール朝はヘラートの奪取を目指してアフガニスタンへと侵攻、イランとアフガニスタンの紛争が再燃した。 1856年、カージャール朝軍はついにヘラートを占領する。しかし、ここでアフガニスタンをロシアとの緩衝国として保護国化することをねらっていたイギリスが介入した。イギリスは、前年にアフガニスタンと結んでいたペシャーワル条約の領土保全条項にもとづいてカージャール朝に圧力をかけ、1857年、パリでイギリス・ペルシア平和条約を結んだ際にその条件の一環としてヘラートを放棄させた。これにより、ヘラートはアフガニスタンへの帰属が確定し、その地方都市となった。
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