近現代のカザン
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19世紀初頭、アレクサンドル1世はカザン大学と印刷所をカザンに創設した。1801年はカザンで最初にクルアーンが印刷された年で、カザンはロシアにおける東洋学研究の拠点となった。19世紀末までにカザンはヴォルガ中流の産業の中心に発展し、周囲の農村から職を求める人々がカザンに集まった。1875年には馬車鉄道が市内を走り、1899年に市電が開通した。一方でクリミア半島に始まったムスリム知識人の改革運動・ジャディード運動もカザンに達し、カザンはロシアにおけるイスラームの復興運動や改革運動、政治運動の拠点ともなった。1905年のロシア第一革命以後、ようやくタタール人はカザンをタタール文化の中心として復興させることを許された。タタール劇場にタタール語新聞もこの時に出現した。ミールサイト・スルタンガリエフのようなムスリム社会主義者も活動し、1920年代初頭まで、ソ連の政治において大きな役割を果たした。 1917年8月14日にはカザン火薬工場で火災が発生し、爆発も起こり市内に被害が広がった。工場は完全に破壊され火は24日まで消えなかった。ロシア革命後のロシア内戦では、1918年にタタール人らによりイデル=ウラル国がカザンを首都として樹立されたが、まもなくボルシェヴィキ軍により滅ぼされた。1918年8月にはチェコ軍団がカザンを占領している。1920年、タタール自治ソビエト社会主義共和国がカザンを中心に建設された。 1920年代から1930年代にかけてカザンは重工業の拠点となったが、同時に多くのモスクや聖堂が破壊された。第一次世界大戦後、国際的な孤児となったドイツの軍部(ヴァイマル共和国軍)は、同じく共産主義国家として国際的に認められないソビエト連邦と秘密協定を結び、カザンに戦車の開発・訓練基地 (Inspektion 6 Kraftfahrwesen) を設け、赤軍と共にヴェルサイユ条約が禁止する戦車の研究開発を1933年まで継続した。これはナチス体制下のドイツ国防軍の急速な軍備拡大の種子となっている。第二次世界大戦ではロシア西部から多くの工場がカザンへも避難しており、軍需産業の中心となって戦車や戦闘機などの製造がおこなわれた。カザンは戦後も軍需産業や重工業の中心となり、爆発的に人口が増加しアパートが立ち並ぶようになった。 1980年代末から1990年代、ペレストロイカとソビエト連邦の崩壊により、カザンは再びタタール文化の復興を見たが、一方でタタールスタンの独立宣言によりロシア連邦とタタール分離主義者との間の緊張も発生した。2000年より市内は大規模な修復作業が進行した。特にカザン・クレムリンでは、1552年のカザン陥落で破壊されたクル=シャーリフ・モスクと、1562年に完成したものの1930年にソ連当局により破壊された生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシェンスキー大聖堂)の双方が再建された。2005年7月29日にはカザンカ川に架かる長さ831メートルの斜張橋・ミレニアム橋が開通し、同年8月27日には地下鉄も開業した。これらは2005年のカザン建都1000年に合わせた大事業であった。しかし「建都1000年」の年号は恣意的に決められた部分もある。
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