近現代の伊勢信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:18 UTC 版)
明治時代に入ると、従前までの伊勢信仰は大幅な変革を迫られた。明治政府は、伊勢神宮を「我が国の宗門」として各神社の最高神とし、国民精神を統合するための国家的なシンボルとすることを図った。このため、中世以来の庶民と神宮の直接的な結びつきは軽視され、より国家としての公的な側面から信仰することが推進された。神宮は天皇の祖神であるから、天皇の赤子である日本国民は必ず神宮へ参拝するべきであるという考えが強調され、明治30年代から学校教育の場においても修学旅行に伊勢神宮が選ばれることが増加した。このため、これまで参宮者の案内や宿泊を担い、神宮と庶民をつなぐ媒介としての役割を果たしてきた御師は、明治4年の通達で全て廃止された。失職した御師に対しては、経済的救済のために授産所が設けられたものの、経済的な打撃は計り知れず、御師達は財産の切り売りを行なった。かつて宇治山田合わせて600軒以上あったはずの御師邸のほとんが残存せず、関係資料の多くが失われたのもこのためである。なお、御師の中にはこれまでのノウハウを生かし、旅館経営や観光業に転身した例も多くある。 他方、私的祈願の要素も完全に消滅したわけではなく、これまで御師が担ってきた神宮大麻の頒布は、本来神宮で私祈祷をあげた証として配布されるもので、私的な領域に属するものであったが、御師の廃止後も神宮司庁により奉製と頒布が引き継がれることとなった。また、これまで御師邸で上げられていた神楽も、私祈願を行うものであるため不適当とされ、御師の解体とともに廃止されたが、神宮において個人祈願を行う場が一切無くなったことで大きな混乱を生じたため、翌明治5年に内宮祈祷所、明治8年に外宮祈祷所が設置され、神楽奉納が復活した。(両宮の祈祷所は、後に現在の神楽殿となった)。また、伊勢神宮が国家の総氏神として強調されたことに加え、伊勢では1894年に津と宮川を結ぶ参宮鉄道が開通するなど交通網が格段に発達したことにより、伊勢参宮者自体は1897年から1945年にかけて一貫して増加し続け、特に国家意識が高まる1937年以降は参宮者の数も急増している。上述の御師廃止に加え、このように鉄道網が発達したことから参宮も容易になり、明治以降は伊勢講も徐々に解散していった。 第二次世界大戦後は、戦後の混乱や神道指令により神社の参拝が憚られたことで一時参宮者が激減したが、1953年以降は200万人を超え、参宮者の数も復調した。近年では、第62回式年遷宮のあった2013年に1400万人、その翌年の2014年に1080万人、改元のあった2019年には860万人を数えるなど、伝統的行事への関心とも結びつき、参拝者数は例年800万人を超える盛況となっている。また、1993年には往時の伝統的な街並みを再現したおかげ横丁がオープンして例年400万人の観光客を生み出し、御木曳などに伊勢市外の人も参加できる「特別神領民」の制度が導入されるなど、観光面でも伊勢神宮への参拝者が増加している。また、伊勢志摩サミットの影響もあり外国人の関心も高まっており、2018年には10万人を超える数の外国人が伊勢神宮に参拝した。
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