学会および公的活動
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「横山保 (経済学者)」の記事における「学会および公的活動」の解説
1982年以前の主なもの。 日本オペレーションズ・リサーチ学会 - 理事、関西支部長、副会長を歴任。1980年、日本オペレーションズ・リサーチ学会第5回普及賞受賞。 日本マーケティング・サイエンス学会 - 1966年の設立に参加し理事、のちに代表理事 経営科学協会 - 1955年の設立に参加し2年間理事。 公的活動として関西生産性本部理事、関西情報センター参与、大阪府病院協会顧問を歴任。
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学会および公的活動
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「落合英二 (薬学者)」の記事における「学会および公的活動」の解説
落合は、薬学と接する多くの研究分野をもつ学会や、その他公的な事業に力を注いだ。第二次大戦前後の激動の時代には、戦時研究であるマラリア特効薬のキニーネ誘導体の研究にも関わり、1942年7月に陸軍技術本部第七研究所兼務を命じられる。また戦後は進駐軍と接触する機会も得て交流が生れた。 1946年6月5日、科学者たちがGHQから東京会館における夕食会に招かれ、科学連絡調整機関について懇談する。1946年7月25日、日本学士院の小委員会に出席して科研費の分配を決す。夕刻工業クラブに朝比奈・近藤・落合・菅沢・石館・秋谷6教授がGHQのアダムズ教授に招かれる。 1955年4月6日、2日後に控えた日本薬学会創立75年記念式典委員長として準備万端に奔走する。4月8日の記念式典は会場を埋めた出席者に薬学発展の希望を与え、戦後における日本の薬学復興の転機となる。 1955年7月、チューリッヒで開催される第18回IUPAC総会に日本学術会議代表として出席するため、7月9日羽田空港を発ち、7月11日フランクフルト着、旧友たちの歓迎を受ける。7月13日、近藤平三郎名誉教授の旧友であるダルムシュタット工科大学のショフ教授に招かれ、新装の講堂で講演を行なう。8月13日帰国。 1956年4月7日、日本薬学会第76回総会において会頭に選任される。1957年4月2日、ノーベル化学賞受賞者ヘルマン・シュタウディンガー博士夫妻を日本に招待した高分子学会に協力した落合は、博士夫妻を羽田に出迎えて帝国ホテルに案内する。 1958年4月高分子学会理事に就任。 1958年9月1日、財団法人乙卯研究所所長就任。1960年2月、理化学研究所招聘研究員嘱託。1960年4月4日、日本薬学会名誉会員に推薦される。7月1日ドイツ薬学会名誉会員に推薦される。1961年11月27日、瓜生宮内庁次長より翌年正月講書始の儀で進講者の控となること正式に依頼され受諾する。 1963年1月8日、講書始では「アルカロイドについて」と題して、30分で進講する。 1965年1月12日、日本学士院会員に選ばれる。1966年4月29日、アメリカ薬学アカデミー名誉会員に推薦される。 1966年9月7日、玉川に新築した乙卯研究所落成式挙行。1967年8月24日、Aromatic Amine Oxides がアムステルダムのElsevier出版から発刊され、高い評価を受けた。1968年3月、財団法人乙卯研究所所長を辞任。11月3日、秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 1969年11月3日、文化勲章受章、文化功労者となる。1972年2月、東京渋谷の「長井記念館」(薬学会館)の竣工落成式を迎え、建設委員長として「長井記念館由来の記」を起草した。
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