大政奉還、王政復古とは? わかりやすく解説

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大政奉還 、王政復古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:30 UTC 版)

江戸時代」の記事における「大政奉還 、王政復古」の解説

王政復古 (日本)」、「戊辰戦争」、および「明治維新」も参照 1867年慶応3年1月9日明治天皇践祚した。親長州派・中山忠能外祖父である中山忠能は、禁門の変後に出仕他人面会禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけではない1867年慶応3年1月15日有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠同月25日有栖川熾仁(たるひと)親王中山忠能宥免された。5月21日薩摩西郷長州との間で、「倒幕」の密約交わされた。6月坂本龍馬が、今後政体構想基本となる案を考え出した。これは、のちに船中八策と言われるのである同年8月東海地方伊勢神宮お札降ったことから喜んだ民衆仮装してええじゃないか謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿四国から関東に及ぶ広範囲地域波及した。このさなかの1867年11月9日慶応3年10月14日)に、15代将軍・徳川慶喜起死回生の策として大政奉還上奏し、15日勅許沙汰書を得る。そして24日将軍職辞した武力によって完全に江戸幕府倒そうとしていた倒幕勢力攻撃名目一時的に失ったため、先手取られた形となったが、薩長はじめとする倒幕派大政奉還同日倒幕の密勅獲得するなど、あくまで幕府滅亡させる姿勢を崩さなかった。1868年1月3日慶応3年12月9日)には岩倉具視西郷隆盛大久保利通結んで王政復古の大号令が発せられ、摂関将軍廃し三職設置される太政官制度が発足した。この日の小御所会議慶喜に対して内大臣辞職領土一部献上命令され新政府旧幕府対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐進んでいった。 慶応3年1月3、4日の鳥羽・伏見の戦い機に戊辰戦争勃発。そして、1868年5月3日慶応4年明治元年4月11日)、勝海舟西郷隆盛交渉結果江戸城新政府軍明け渡され慶喜水戸蟄居したことにより、江戸幕府名実ともに消滅した慶応3年1月15日、3職7科の制を定める。3月14日、五か条の誓文、「宸翰」、同15日、五榜の提示など新政府施策次々実施されていった1868年明治元年9月8日一世一元の制定められたうえで、明治改元された。以降明治時代呼ばれる江戸幕府崩壊したあとも、一部幕府残存兵や親幕府大名関東地方および東北地方5月3日奥羽越列藩同盟成立)などで抵抗したが、1869年5月17日五稜郭陥落により(箱館戦争)、戊辰戦争終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代名実ともに終了した武士華族士族といった称号獲得したものの、特権や禄を失い反乱もすべて失敗したことにより、一般国民吸収されていった

※この「大政奉還 、王政復古」の解説は、「江戸時代」の解説の一部です。
「大政奉還 、王政復古」を含む「江戸時代」の記事については、「江戸時代」の概要を参照ください。

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