多様な音楽ジャンルへのアプローチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:11 UTC 版)
「吉田拓郎」の記事における「多様な音楽ジャンルへのアプローチ」の解説
アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり、ザ・ベンチャーズやボブ・ディラン、サム&デイヴ、ビートルズらを渉猟した拓郎は、フォークのみに依拠したわけではない。田家秀樹は「フォークは吉田拓郎の登場で大きく変わったと思います。拓郎の曲には、ロックもR&Bも入ってました」、高護は「吉田拓郎のサウンド・プロダクションはシンプルだったがフォーク・ロックを基調とする点で初期の岡林信康や高石友也とは明らかに一線を画していた」などと評している。佐藤剛は「吉田拓郎や井上陽水は、ロックやR&Bの洗礼を受けた新しい時代のシンガー・ソングライターたち」と論じている。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある。吉田拓郎が初めてアイドル雑誌に取り上げられたのは『月刊平凡』1971年1月号と見られるが、この記事に「吉田拓郎さんといっても、まだ知らない人が多いかも知れない。現在、広島商科大学に在学中の学生シンガーだ。(中略)今回のLP『青春の詩』は、作詞、作曲、ギター、歌、すべて彼ひとりの作品集。フォークとロックの絶妙なコントラストが、音楽界に新分野をもたらしている」と記述されており、吉田拓郎はデビュー時から音楽性にロックの要素が含まれていたことは、後に音楽評論家が言及しただけではなく、当時のマスメディアからも認識されていた。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」などと話し、1975年の小室等との対談では「『結婚しようよ』や『旅の宿』を作ったとき、(制作当時の)日本の音楽ファンは、耳ざわりな音より、快く耳に入ってくる音の方がいいと思った。ブラスがバンバン鳴って、エレキがギンギン入るより、アコースティックな感じで、音もなるべくシンプルにした方が、おそらく納得するだろうと思ったんだ」と述べており、「僕はバンド出身なので、バンドサウンドにすごいこだわりを持っている」などと話している。篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」、北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている。矢沢保は「吉田拓郎は、もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している。牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている。イルカは「フォークもロックも、後ろで支えていた人たちは交流がありました。初期の矢沢永吉さんのスタッフの中には吉田拓郎さんを支えていた方が入り交じっていました」などと述べている。スペクトラムの元メンバーで、KUWATA BANDのリーダーを務めた今野拓郎(今野多久郎)は、「吉田拓郎の歌に出会って"男"とはこうあるべきだということを、中学生の私は初めて考え、学んだように思う。『元気です。』のアナログ盤を四六時中聴き、ギターをかき鳴らした私はその後もずっと吉田拓郎の歌を"元"に人生を生きてきたと感じている」などと述べている。スージー鈴木は「あくまで個人的意見として、日本の“ロック人”を3人に絞るとすれば、吉田拓郎、矢沢永吉、桑田佳祐。そして、たった1人選ぶとすれば――桑田佳祐」と論じている。但し、「吉田拓郎は矢沢永吉や桑田佳祐の登場以上の社会的現象だった」と述べている。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく。 桑田佳祐は著書で、拓郎の歌謡曲的な部分、コマーシャルソングの音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げている。 1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している。
※この「多様な音楽ジャンルへのアプローチ」の解説は、「吉田拓郎」の解説の一部です。
「多様な音楽ジャンルへのアプローチ」を含む「吉田拓郎」の記事については、「吉田拓郎」の概要を参照ください。
- 多様な音楽ジャンルへのアプローチのページへのリンク