多作なデザイナー(1853年–1863年)
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「ジェイムズ・ロングエーカー」の記事における「多作なデザイナー(1853年–1863年)」の解説
1853年、連邦議会は銀価格の高騰に直面し、5セント貨、10セント貨、25セント貨および50セント貨の銀含有量を減らした。ロングエーカーはゴブレヒトのデザインを修正して、新しい貨幣が古いものと区別がつくようなものを求められた。ロングエーカーは、25セント貨と50セント貨裏面の紋章の鷲の周りに光の条を入れることと、全ての硬貨には日付の傍に矢を入れることを提案した。1枚の重量を減らすことが求められ、造幣局は外部の芸術家を雇って作業することが認められたので、スノーデンが新しい貨幣に公的なデザインを許可した。しかし、外部からのデザインは不適切とされ、ロングエーカーの提案が採用された。光条は型の寿命を短くする傾向にあり、1年も経たない内に取りやめられた。矢の方は1855年以降に実施された。 1853年、連邦議会は3ドル硬貨の製作を承認した。ロングエーカーの文書の中に見つかった注釈では、その任務は金額的に近い2.5ドルのクオーター・イーグルとできるだけはっきりと区別が付けられるようにすることだった。ロングエーカーはインディアンの王女の顔をデザインし、それでゴブレヒトの作ったクオーター・イーグルのリバティデザインと異なるものにし、薄く広い板金とした。当時インディアンの女性がアメリカの芸術で使われることが多く、自由の絵にインディアンの王女を使うのが当時の慣習に沿っていた。ロングエーカーは支配人のスノーデンに、1854年から製作される3ドル貨は貨幣のデザインで芸術的な自由度を許された初めてのものだと伝えた。この金貨は地金を薄く広いものにするよう同年に修正された。ロングエーカーはその金貨の王女のデザインを修正した。硬貨の裏面には、小麦、トウモロコシ、タバコ、綿花のリースを作り、北部と南部の農作物を混合させた。このリースは1856年の飛ぶ鷲文様・1セント貨裏面にも使われた。さらに1860年からは10セント貨にも再利用され、1916年のバーバー・ダイムで廃止されるまで修正を加えながら生き残り、この「穀物リース」はロングエーカーのデザインとして最も長く使われたデザインとなった。 1850年代半ば、ロングエーカーは海軍省からダンカン・イングラハムに贈呈されるメダルのデザインを頼まれた。ロングエーカーが表面に使われるイメージを作り、裏面は彫師助手のクロスが担当した。ボワーズは、ロングエーカーが「その職場では厳格に倫理的」であると表現したが、財務省がロングエーカーは海軍省からその仕事に対して2,200ドルを受け取ったと知ったとき、この種の補償を禁じている連邦法に従い、金を上納するよう求めた。1867年の分析委任メダルのデザイン、さらに1860年、1861年、1868年の委任メダルの裏面に同様なリースを使ったもの以外で、イングラムのメダルは唯一政府のために造られたメダルとなった。 物価の上昇と共に、造幣局はそれまでの小さな銅貨から大きな銅貨への置き換えを求めた。1850年から代替貨幣を見出すために、多くのパターン貨幣が打たれた。デザインとフォーマットが変わった。最初は造幣局が穴あきの貨幣を検討した。1854年と1855年、多くの実験が行われ、その幾つかは大型貨幣に使われた自由(リバティ)の頭を使い、他のものはロングエーカーが1836年ゴブレヒト・ドル貨から採用した飛ぶ鷲のデザインだった。ゴブレヒトのデザインは、1830年代にフィラデルフィア造幣所を度々訪れ、機械に挟まれて死んだおとなしい鳥、ピーター・ザ・イーグルがモデルだと言われていた。剥製のピーターはその後フィラデルフィア造幣所の展示室に置かれた。 飛ぶ鷲のデザインは、1856年に政府役人その他に渡された実験パターンの大量発行に採用された。その貨幣は1857年から定期発行で使われた。裏面にはロングエーカーの穀物リースがあしらわれ、鋳造には難しさがあった。表面の鷲の頭と尾はリースの反対側に置かれ、使われた固い銅ニッケル合金に打つには特に難しいデザインポイントだった。1859年からの貨幣はインディアンの頭飾りをつけたリバティのデザインを使った。「月桂冠」と呼ばれたものであるが、実際にはオリーブであり1859年のセント貨の裏面を飾った。1860年から、裏面にはオークのリースが入り、盾がセント貨に使われた。リースを置き換えた理由は不明である。盾は、スノードンが貨幣に「より全国的な性格」を望んだので加えられた。この裏面は概してロングエーカーのデザインとされている。スノーは彫師助手のアンソニー・C・パケットが作った可能性があると推測している。 貨幣学の伝説では、ロングエーカーのインディアン顔セント貨デザインは、その娘サラの顔を元にしていると言われている。その話では、サラがある日造幣局にいて、そこに来ていた多くのインディアンの一人の頭飾りを試そうとしていたのを、父がスケッチしたとしている。しかし、サラ・ロングエーカーは1858年に30歳で既婚であり、伝説の様に12歳ではない。ロングエーカー自身が、その顔はバティカンから借りたフィラデルフィアのビーナス像を元にしたと言っていた。息子のジェイムズ・マディソン・ロングエーカーが度々姉の顔をスケッチしており、サラ・ロングエーカーの絵と、1850年代のロングエーカーの貨幣に使われたリバティの様々な表現には似ているところがある。これらの伝説は当時明らかに流通しており、1859年11月、スノードンは財務長官ハウエル・コブに宛てた手紙で、「ロングエーカーの家族の顔に基づいている」という説を否定した。リー・F・マッケンジーはロングエーカーに関する1991年の記事で、画家は誰でも多くの点で影響されうるが、その話は「基本的に嘘である」と言っていると述べている。
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