在留邦人の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 13:56 UTC 版)
満洲の兵力の大半は南方へ移転、昭和20年春からの「根こそぎ動員」により壮年男子が召集されていたので、開拓団には老人、女性、子供ばかりが残され、僻地の開拓団にはソ連参戦も日本敗戦も伝わらなかった。また、日ソ開戦前に関東軍が主力を北朝鮮方面に後退させたので、ソ満国境附近の日本人開拓移民は戦場に取り残され、混乱の中で多数の犠牲者や孤児が出ることになった。大半の開拓移民や居留民は荷馬車に荷を積み徒歩で都市部に向かう途上、ソ連軍や現地の暴徒の襲撃を受け、戦死あるいは自決、病死、栄養失調死も多かった。 ソ連軍首脳部は日本軍と日本人に対する非人道的な行為を戒めていたが、ソ連軍の現地部隊はそれを無視しており、正当な理由のない発砲・略奪・強姦・車両奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していった。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封殺され失われていた。このような中で、ソ連軍から支配地を引き継いだ八路軍による圧政から通化事件のような虐殺事件が起きた[要出典]。 ソ連軍は開拓団で退避した人々の群れを見ると、機銃掃射を浴びせた。それでも逃げる在留邦人を、今度は中国人農民が匪賊となって襲撃し、虐殺して死者の衣服まで奪い取って行った。8月14日に起きた葛根廟事件では、数千人の避難民が退避している際にソ連軍から一斉射撃を浴びた後、戦車に轢き殺された者もあり、女性将校に指示されキビ畑の空地に集められた母子約30人にソ連兵が銃を撃ちまくって全滅させる場面もあった。生き残った子供も暴民に拉致され売り飛ばされるなどした。 その後生存者も死者も中国の暴民によって衣服をはがされ、強姦された。また吉林省扶余県の開拓団の事例では、親しかった中国人が暴徒襲撃の情報を教えてくれたので、竹槍などで武装して戦ったが、中国人暴徒の数は2000人にも及び、婦女子以下自決して272名が死んだという。そのほか、敦化事件、牡丹江事件、麻山事件などが起こった。 このような逼迫した状況下で関東軍の現地責任者は、一刻も早くこの現状下に鑑み現地での状況を東京に逐次伝え、ソ連に対してこのような事態を一刻も早く改善するようにと外交的交渉を早く進展するようにと求めることが限界であった。この時点で本来なら関東軍を指揮督戦して励ます筈の上層部はすでに航空機等で本土にいち早く退避しており、満州国に残された現地の責任者等は、このような現地状況を日本政府に電報を使用して再三に渡って送り続けた。一方日本政府は連絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するようにと本土より打電をして取り計らっていた。[要出典] このとき内地に戻ることができず現地に留まった在留邦人は中国残留日本人と呼ばれており、日中両国の政府やNPOによる日本への帰国や帰国後の支援などにより問題の解決が図られているが、終戦から70年がたった後でも完全な解決には至っていないのが現状である。また、樺太では在樺コリアンの問題が残っている。 関東州を含めた在満洲日本人居留民は155万~160万人、その約14%にあたる27万人が開拓民であり、うち7万8500人が死亡した。これは日本人死亡者17万6千人の45%にあたる。
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