在監と死刑執行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 16:01 UTC 版)
「イディス・トンプソン」の記事における「在監と死刑執行」の解説
公判前および公判中、トンプソンとバイウォーターズは、高度にセンセーショナルな、かつ批判的なメディアのコメントの的であった。しかしながら、彼らが死刑判決を宣告されたのち、公衆の態度およびメディアの報道にドラマチックな変化があった。バイウォーターズは、トンプソンへの熱烈な誠実さと庇いぶりに対する賞賛を集めた。トンプソン自身は愚かな女性と見なされたにも関わらず共感をひきつけたが、それは女性を絞首刑に処するのは忌まわしいと一般に見なされていたからである(1907年以来、英国では女性は死刑執行されていなかった)。トンプソン自身も「自分は絞首刑にはなるものか」と述べ、両親が彼女のもとを訪れることを許された時、彼女は父親に自分を家に連れて行くように強く促した。請願書とバイウォーターズの新たな告白(その中で彼は再度、トンプソンは完全に無実だと述べた)にも関わらず、内務大臣ウィリアム・クライヴ・ブリッジマン(William Clive Bridgeman)は、死刑執行を延期することを拒んだ。死刑執行の数日前、処刑の日が決まったと聞かされたトンプソンは、平静さを失った。彼女は人生の最後の数日間をヒステリーに近い状態で過ごし、わめきながら、叫びながら、うめきながら、そしてものを食べることができなかった。死刑執行の朝、彼女は大量に鎮静剤を飲まされたが興奮状態のままであった。1923年1月9日ホロウェー刑務所で、29歳のトンプソンは、自分が絞首刑に処せられる現実に恐ろしくて衰弱し、そして意識の無いまま、絞首門で看守4人に支えられなければならなかった。彼らはトンプソンを絞首台までの半ばまで運び、そこで彼女の首に首つり縄を掛ける間、真っ直ぐ立たせておかねばならなかった。様々な記述が「看守らは、彼女の首に首つり縄をかける前に彼女を小さな木製の椅子に縛りつけなければならなかった」("guards had to tie her to a small wooden chair before drawing the noose around her neck")こと、「彼女はボースンチェアに乗って絞首刑に処せられた」("she was hanged in a bosun's chair")ことを報告している。 20歳のバイウォーターズは自分の逮捕以来、トンプソンを死刑執行から救うように努め、ペントンヴィル刑務所(Pentonville Prison)にて絞首刑に処せられた。2つの死刑は午前9時に同時に、たった半マイルだけ離れて執行されたが、これはホロウェーとペントンヴィルが同じ区(district)に在るからである。後に、これは規則であったが、トンプソンとバイウォーターズの遺体は死刑が執行された刑務所の塀の内に埋葬された。 絞首台の落とし扉が開き、トンプソンが落ちた時、ロープが引かれてぴんと張ったときの急停止の力が、彼女に大量の膣出血をさせた(ただしこの話はアルバート・ピアポイントによって反論され、彼は看守助手に話しかけたと主張した)ことは数年後、明らかにされた。こぼれた大量の血液は、トンプソンが在監中に食べ物を我慢していてさえ体重が増えていたという事実と結びつけられ、彼女が妊娠していたかもしれないという推測に繋がった。しかし死体解剖は行われず、そのためこの問いは答えのないままである。彼女の死刑執行人ジョン・エリス(John Ellis)は、自分はトンプソンの最期の数瞬の恐怖にとりつかれたままでいると述べて、ついには自殺をとげた。トンプソンの後に英国で絞首刑に処せられたすべての女性は、キャンヴァス製の特別な衣服を着るように求められたが、その目的はトンプソンが被ったような出血を防ぐ(あるいは保つ)ことである。イディス・トンプソンは、20世紀に大英帝国で絞首刑に処せられたたった17人の女性のうちの1人であった。
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