在留邦人脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:08 UTC 版)
なかなか終わらない戦争に対し、日本では両国の名前をもじって「イライラ戦争」と呼ばれた。両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサッダーム・フセイン大統領が突如宣言した。 この宣言後、イランに住む日本人以外の外国人は、おのおの自国の航空会社や軍の救援機によって順次イランから脱出していった。 しかし、日本においては当時自衛隊が海外へ救援機を飛ばすことはできず、日本航空にチャーター便の派遣を依頼したが、同社のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、安全が保障されないことを理由に拒絶した。その間、在イラン日本大使館では手を尽くして救援機を派遣した各国と交渉したものの、いずれの国も自国民救出に手一杯であり、希望者全てを乗せてもらうことは到底かなわず、未だ200名を超えるイラン在外日本人が全く脱出方法が見つからずに、生命の危機に瀕する状況にあった。
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