国際レースの登場とは? わかりやすく解説

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国際レースの登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:56 UTC 版)

自動車競技」の記事における「国際レースの登場」の解説

国際レースとしての最初自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催されゴードン・ベネット・カップである。最初大会パリ - リヨン間の速さ競った。これらの大会中1900年1901年1904年1905年の4回をフランス勢が制し1902年大会でイギリスネイピア & サン車が勝利した優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年大会イギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式にアイルランドキルデア県この年ゴードンベネットカップ制したのはドイツメルセデスであったため、翌1904年ドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後大会フランスクレルモン=フェランオーヴェルニュ地域圏周回する競技(※:後にシャレード・サーキットとなった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリー前年続き2連覇した。 ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後イギリスにおける自動車競技伝統するナショナルカラーとなった詳細は「ナショナルカラー#モータースポーツナショナルカラー」を参照 一方フランスでは1901年ポー開催されレースでは、クラス毎に分けた取り組みなされた軽量クラス与えられた「グランプリ・デュ・パレ・ドール (仏: Grand Prix du Palais d’Hiver)」、重量最速クラス与えられた「グランプリ・ド・ポー (仏: Grand Prix de Pau」と賞の名前に初めて「グランプリ」が使用された。グランプリは「英: Grand Prize = グランドプライズ」すなわち「大賞・最高賞」を意味する言葉であり、これが起因して今日では最高位レースグランプリという名称が使用されるようになった1906年フランス自動車クラブ (仏: Automobile Club de France, ACF) が主催してACFグランプリ通称1906年フランスグランプリ)」が開催される一般公道使用するレース後述する1903年開催されパリマドリードレースでの死亡事故によって禁止されていたが、ゴードン・ベネット・カップヒント公道閉路として使用した「クローズドロードレース」としてル・マン開催され、1周103.18kmを12周、合計1238.16kmで争われるレースであったその後1907年1908年1912年ディエップにて、1913年アミアン1914年リヨン第一次世界大戦勃発するまで開催された。余談ではあるが、終戦後最初フランスグランプリ1921年に再びル・マン戻され現在のサルト・サーキット原型となる場所で開催された。また、ポー1930年国際レースとしてフランスグランプリ開催された場所でもある。ポー1933年より「ポー・グランプリ」と呼ばれ開催されなかった1934年1940年から1946年1956年、そして2010年除いてF1、F2、F3WTCCなどなんらかの国際競技開催されるなどこれらの都市フランスにおけるレース聖地となっている。 その他、国際レースとして超長距離レースが行われるようになった1907年には北京パリレース開催され北京からスタートしてパリまで14994kmを横断するレースだった。参加した車両合計5台でイタリアからイターラ1台、オランダからはスパイカー1台、フランスからは三輪自動車のコンタル1台と蒸気自動車のド・ディオン・ブートン2台が参加した6月10日スタートし62日かけてイターラのボルゲーゼ公爵ゴールし優勝した。なお、優勝賞品G.H.MUMMシャンパン1本だけだった。 翌1908年にはニューヨークパリレース開催された。イタリアのツースト、ドイツプロトスアメリカのトーマス・フライヤー、そして今回フランスからド・ディオン・ブートン、モトブロック、シゼール=ノーダンの3台が出場し合計6台で争われた。2月12日ニューヨークスタートしてアメリカ大陸横断した後にシアトルから日本横浜渡航し敦賀まで480キロメートル縦断した。余談だがこのレース記録に残る日本初め自動車競技が行われた瞬間である。そこから日本海渡りウラジオストク上陸してシベリア横断する形でユーラシア大陸東から西駆け抜けパリ向けて距離にして22,000キロメートル旅するものであった最初にゴールしたのは7月26日パリ到着したドイツプロトス車を運転する陸軍中尉ハンス・コーペンであったが、北米大陸横断の際、一部区間鉄道使って車を運んだため15日間のペナルティ科されたので、正式な優勝7月30日ゴールしたトーマス・フライヤーを駆るアメリカのジョージ・シャスターであった。この自動車競技は「偉大なレース」として数えられ、後のラリー・ラリーレイドの原型となった

※この「国際レースの登場」の解説は、「自動車競技」の解説の一部です。
「国際レースの登場」を含む「自動車競技」の記事については、「自動車競技」の概要を参照ください。

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