唯一の被撃墜例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 17:57 UTC 版)
「F-117 (航空機)」の記事における「唯一の被撃墜例」の解説
コソボ空爆において、1999年3月27日にセルビアの首都ベオグラード近郊上空で米空軍第49戦闘航空団に所属する1機、コールサイン「ヴェガ31」、シリアルナンバー「82-0806」(1982年度会計発注の22号機)が撃墜されている。同機は、1984年8月20日に進空して同年9月12日に空軍へ引き渡されており、湾岸戦争では第415戦術戦闘飛行隊に所属し39回出撃している。撃墜当日、同機は僚機とともにネヴァダの基地から発進し大西洋を横断し、数回の空中給油の後、地中海上で最後の空中給油の後ベオグラード近郊まで進空したところで撃墜された。撃墜後パイロットは緊急脱出し、数時間後に救助されている。同機のキャノピーのフレームには「ケン・"ウィズ"・デュエル大尉」と記載されているが、同パイロットは当時除隊を控えているためアメリカ本土に居た。当初はパイロットの名前、階級は公表されなかったが、Dale Selko(デール・ゼルコ)大尉(当時。2007年時中佐)が当日操縦していたことが明らかになっている。また、撃墜された時にパイロットが、僚機(「ヴェガ32」)等及び管制機に向けて発した、「Mayday! Mayday! Mayday! Vega 31 …」との連呼した救助コールと、それに呼応する音声、及び続いて発信されたF-117の遭難信号音等も傍受され録音が残っている。自機のレーダーも外し、僚機との交信も控えて隠密作戦をするF-117であるが、墜落時には敵側にも傍受可能なウォーキートーキーを使って救助発信を行なった。 事件当初、様々な説があったものの、その後、アメリカ合衆国、セルビア側の双方で公表され、当事者のインタビュー記事などもあり、概容は判明している。迎撃したのはユーゴスラビア防空軍第250地対空ミサイル旅団第三中隊で、同部隊は開戦と同時に従来のミサイル基地から秘密基地に移動しており、開戦後数日で従来のミサイル基地にやってきた3発の巡航ミサイルからの被爆を回避していた。F-117の撃墜時刻に任務分担についていた8名の班の指揮官名はダニ・ゾルタン中佐。撃墜に利用された兵器は1960年代初期に登場した中低高度用対空ミサイルS-125N ネヴァー(西側名称SA-3ゴア)である。当時のS-125の射撃管制システムは、目標捕捉レーダー、追跡管制レーダー、高角レーダー、TV追跡システムからなり、この第三中隊では西側の新鋭軍用機に対応するために射撃管制システムを改良しており、レーダーの送受信機を改造して長波長、低周波数の電波を利用してF-117の探知を可能にしていたとされる。F-117に対して発射された2発の対空ミサイルの内、一発がF-117の左翼を直撃し、F-117は墜落した。パイロットは当日の作戦について最初から撃墜されることを危惧しており、当日の現地の天候が雨模様だったことも、撃墜された原因の一つとして挙げている。いずれにせよ「見えないはずの爆撃機」を「狙い撃ち」できたわけである。この教訓からか最近のロシア戦闘機は、Su-57を始めとして、機首に装備しているXバンドレーダーだけでなく、主翼前縁スラットにLバンドレーダー(N036L-1-01)を装備し、対ステルス対策としているとの説もある。 セルビアの山中に墜落した機体の残骸は、ベオグラードの航空博物館に展示されている。紛争当時のクロアチア陸軍参謀総長だったドマゼット=ロソ(クロアチア語版)は、一部の残骸はスロボダン・ミロシェヴィッチ政権時代からセルビアと友好国である中華人民共和国に提供され、殲20といったステルス戦闘機などが開発されたと主張した。これについて「撃墜されたF-117の部品を入手した中国にとって、最大のステルス技術の収穫は、F-117が木製の飛行機だったことだ。」との笑い話も中国情報部で囁かれたという。
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