唐紙屋長右衛門
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『雍州府志(ようしゅうふし)』(擁州とは山城国の別称で山城の地理案内書の意)貞享元年(1648年)刊に、京の唐紙師について「いまところとどころこれを製す。しかれども東洞院二条南の岩佐氏の製するは、襖障子を張るのにもっともよし、もっぱらこれを用いる」とあり、『新撰紙鑑(かみかがみ)』には、「京東洞院、平野町あたりに唐紙細工人多し」とある。 元禄2年(1689年)刊の『江戸惣鹿子』には、13人の唐紙師の名がある。文政7年(1824年)の『商人買物案内』には、唐紙屋として八軒の名が挙がっている。現在も続いている京唐紙師の「唐紙屋長右衛門(唐長)」の家系を継ぐ『千田家文書』に、天保10年(1839年)に唐紙師が十三軒あったと記されている。からかみの紋様は、当初「唐紙」の唐草や亀甲紋様などの幾何学紋様が主流で、近世にはいって光琳派などの絵画の技巧的な装飾文様が多用されるようになった。 京の唐紙屋仲間の多くは、元治元年(1864年)の禁門の変で多くの版木を焼失してしまった。唐紙屋長右衛門は、禁門の変の時、タライに水を張り、目張りした土蔵に版木を入れて、戦乱の火災から唐紙の版木を守り抜いた。禁門の変で版木の焼失を免れて、明治以後に残った唐紙屋は、唐紙屋長右衛門を含めてわずかに5軒であった。しかし、文明開化など暮らしの変化に伴い次第に廃業、江戸のからかみ屋は、関東大震災、東京下町大空襲などにより焼失、戦後近年復興されたところもあるが、現在では江戸時代より代々続いてきた唐紙屋は日本でただ1軒、唐紙屋長右衛門、すなわち「唐長」のみである。 唐長には約六百枚の版木がある。これらは、12枚で一面の襖になる十二板張り判と十板張り判そして五枚張り判とがある。十二枚張り判はほとんどが江戸時代のもので、版木の大きさは約縦九寸五分、横一尺五寸五分である。天明8年(1788年)の大火で版木を全て焼失し、再刻されたもので、最も古いものは「寛政四年六月 唐紙屋(からかみや)長右衛門 彫師平八」と墨書されている。十枚張り判は明治・大正期のもので、縦一尺一寸五分、横一尺五寸五分である。五枚張り判は、大正・昭和期のもので、十枚張り判の横幅を二倍にしたもので、横三尺一寸と間似合紙の寸法に合わせてある。これらの版木の材質は、サクラやカツラのものもあるが、ほとんどはホオノキで作られている。これらの多くの版木から、華麗で多彩な京唐紙が摺り出されて、日本の伝統工芸としての唐紙が作り続けられてきた。 千田家の先祖は、もともと摂津国出身の北面武士であったが、初代長右衛門はその晩年に唐紙屋を始めたと伝えられている。初代長右衛門の没年は貞享4年(1687年)十一月となっているので、「唐長」の伝統は三百年をすでに越えている。ちなみに千田家の元当主竪吉は十一代目である。唐長については、ホームページや「和の学校」内参考ページがあるので参照されたい。 唐長の次世代を担う11代目千田堅吉の長女である千田愛子は、2004年、現代の暮らしにあう唐紙のありかたを考え、 COCON KARASUMA に、KIRA KARACHO を立ち上げ、ビルのファサードには、唐長文様「天平大雲」を掲げた。千田愛子夫妻は、さまざまな企画展やコラボレーションを手がけている。 2009年、夫トトアキヒコとと共に唐長サルヤマサロンで開催した展覧会「Inochi」展での夫婦合作作品「Inochi」は、MIHO MUSEUM に収蔵、 2010年、MIHO MUSEUM創立者生誕100年記念特別展「MIHO GRANDAMA Arte della Luce」(ミホ グランダーマ アルテ・デラ・ルーチェ)にて披露された。唐紙の作品が美術作品として収蔵されるのは、創業以来、はじめてのことである。 2010年には、トトアキヒコの唐紙作品「星に願いを」が名刹養源院に奉納。俵屋宗達の重要文化財である唐獅子の杉戸絵に並んだ。歴史的にさまざまな寺社に唐紙は襖や壁紙、屏風などに用いられてきたが、作品として唐紙が納まるのは、歴代はじめてのこと。
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