唐継尭への兵変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/30 19:08 UTC 版)
1917年(民国6年)4月28日、顧品珍は北京政府から陸軍第14師師長に任命された。しかし同年に唐継尭が護法運動に呼応して靖国軍を組織すると、8月に靖国軍第1軍軍長に任命された。その後、顧は靖国軍第2軍軍長の趙又新とともに、川軍(四川軍)の劉存厚らと戦った。しかし1920年(民国9年)9月、顧は成都で川軍に撃破され、趙も瀘州で戦死した。 雲南へ撤退した顧品珍は、1921年(民国10年)2月、唐継尭に対して兵変を起こし、昆明を占領して唐を駆逐した。これにより顧は滇軍総司令に推挙され、雲南の統治者となった。顧の政治的立場は、唐と異なり孫文への支持を強めるものであった。同年12月には孫文の北伐を支持して、翌民国11年(1922年)1月、雲南討賊軍総司令に任命されている。 しかし、同年2月から唐継尭が雲南奪還の軍事行動を開始する。顧品珍もこれを迎撃したが、3月20日、宜良で唐に味方する匪賊に急襲され、戦死した。享年40。1923年(民国12年)、孫文は顧に陸軍上将の位を追贈した。
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