唐船の派遣主体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 01:42 UTC 版)
上記のごとく寺社造営料唐船は、幕府や寺社側の必要性から派遣されたというのが通説であったが、近年の研究では、むしろ貿易船の主体は博多などの商人であり、利潤の一部を寺社の造営費用にあてるというのは看板に過ぎなかったとの見方が提唱されている。 とりわけ昭和51年(1976年)韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船が発見、引き揚げられた(新安沈船)ことで、これまでの寺社造営料唐船の通説的理解は、大いに修正を迫られることになった。新安沈船から引き揚げられた遺物には白磁、青磁の天目茶碗などおよそ1万8000点におよぶ陶磁器や、約25トン・800万枚もの銅銭、そして346点もの積荷木簡が含まれていた。後述の如く、この船は東福寺(現京都市東山区)造営を名目とした貿易唐船と見られるが、積荷木簡の中には「綱司」(交易船長の意)という字を記すものが110点あり、その多くは「綱司私」と記され、商人の私的交易品が多く含まれていたことが伺える。 村井章介は、この船は博多を拠点とする貿易商人が主体となったもので、東福寺や幕府は多くの荷主の中の一つに過ぎなかったのではないかと推測する。さらに新安沈船に限らず、この時期の寺社造営料唐船の多くは本来、博多を拠点とした商人が主体であったとする。博多には平安時代の日宋貿易以来、宋から渡来した商人が居を構える「唐房」あるいは「大唐街」と呼ばれる街域があった。だがモンゴルの南下による宋の衰亡により、大陸へ帰還したり日本へ土着する者が現れるなどで縮小し、日元関係の悪化によって中国商人の博多定住も困難となっていた。そこで、貿易商人が博多に長く滞留することなく、船を早く回航する必要が生じ、これが商人らの競争を加速したと思われる。そんな中、競合商人が少しでも有利な条件で参入するために「寺社造営」という看板を掲げることで、日本の政治権力(武家、寺家)と提携したのが寺社造営料唐船の正体と見る。 実際、幕府が国内沿岸を運行する唐船の警固を西国の御家人に命じた例がいくつか見られるものの、外洋に出た後の航海は護衛することなく、基本的には商人たちに放任されていた。また後述の天龍寺船が入元の際、倭寇を警戒する元の官憲に入港を阻止されていることは、幕府の公的な公認というものが実質上の意味(密貿易船(倭寇)ではないことの証明)を有していなかったことを示している。従来思われていたほど、幕府は積極的に関与したわけではないと思われる。 また、新安沈船の建材は中国江南地方産のタイワンマツと見られ、型式も中国南部でよく見られるジャンクであることから、綱司となった商人も中国人であったり、商船の建造が中国で行われた可能性もある。しかし当時、密貿易に関わる倭寇も含め、このような国境沿岸の貿易商にとっては、国籍はそれほど意味をもたなかったと思われる。元側の史料では、綱司の出身国にかかわらず、博多から来航した船は日本船(倭船)として扱われている。
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