唐時代の気風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
唐代の気風は、安史の乱を境として、初唐と盛唐の前期、中唐と晩唐の後期に大きく分かれる。全体的に律令制度は確立していったが、貴族制の特徴は濃厚であり、制度としては緩やかで柔軟なものであり、それが気風にも影響していた。 前期における唐は、中国の中世において、最も盛んな時代である。唐政府は、唐王朝の皇帝である李氏が北方民族であった鮮卑の系統でいることもあって、北方民族の文化影響が強い北朝を継承しており、人々は道徳を厳しく遵守せず、唐の太宗は周辺民族を含めて「天下は一家」として、全体的に開明的で開放的な政策を行った。 また、周辺国家や民族の交流が非常に盛んであり、異民族の文化や風習、宗教を受け入れ、習慣として盛んになった。そのため、全体として漢族が異民族の影響を受け、融合した時代となった。唐政府の政策は、異民族にも相当に平等なもので、異民族でも高官になることができ、自己の民族文化を保ったまま生活することもできた。周辺諸国も漢字を共有のものとする東アジアに文化圏が生まれるほど、多大な影響を受けた。都市の一般住民も異国からの文物が浸透していった。 また、律令体制も完成し、全国で通用するようになった。そのため、中国の時代のなかで比較的公平な社会であった。科挙制度を継続したため、いまだ貴族制の影響は強かったが、社会階層の流動化は進展していた。科挙では詩作が重視されたので、多数の文人が生まれた。また、音楽や書道、各種の遊戯も盛んであった。 この時代は儒教道徳は弱わり、自由に振る舞うことや勇気があることも重視された。文人にも辺境に赴き、軍事に関わることを求めることも多く、多くの「辺塞詩」が生まれた。官僚や女性を含め、人々は、様々な異民族から影響を受けた格好をすることができた。 経済については、資源の開発が進み、唐政府が周辺国を制圧したため、通商圏が拡大し、周辺から物資が流入するようになり、全体的に好景気であった。陸上だけでなく、海外貿易も増加し、中国南方も発展した。 後期については、安史の乱により、皇帝権力を支える基盤は衰え、地方に藩鎮勢力が割拠し、世界帝国的な性格は後退した。しかし、商業の発展を背景に、武力国家から、両税法の施行により財政国家に生まれ変わり、唐政府は困難を財政の力を背景に乗り切った。また、文学は発展し、印刷技術は向上していった。他面、物価が高騰したため、自作農が崩壊し、流民があふれ、「客戸」として各地の荘園や新興地主の小作となっていき、社会不安の要素となった。 貴族制は衰退し、新興地主層の興隆とともに、官が規制できない民の力が増大してきた。武宗の「廃仏令」など唐国内における排外主義は強まり、周辺国も独立の傾向が強くなった。社会も余裕がなくなり、個人が自由に振る舞うことも少なくなった。
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