唐朝奉職と職務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:35 UTC 版)
阿倍仲麻呂の科挙合格による奉職を伝えるのは、宋代の文人楊憶の文集『楊文公談苑』だが、科挙による官吏採用での奉職が常識になった宋代のもので、それによる偏りがあり、阿倍仲麻呂が科挙を受けたか疑問があるとの指摘がある。『古今和歌集目録略伝』には、阿倍仲麻呂は、京兆尹の重職にある官吏の崔日知の推挙により登用され、左補闕になったとの記述がある。新羅は、180回もの遣唐使で、留学生がはるかに多いが、それでも科挙登用されるようになったのは、外国人向けの別枠の別科「濱貢科」が科挙に設けられてからである。 官歴では、蔵書管理や文書作成の官吏の秘書省の長官の秘書監に任じられたほか、極官としては光録太夫、60-61歳のころ粛宗皇帝による顧問の右散騎常侍に配任されるなど、優遇はされているが政治中枢ではない皇帝に近侍する側近という扱いであり、玄宗皇帝の異国趣味による取り立てをされたことが大きいとされる。 仮に、日本に帰国しても、唐文化を崇め全面的に受け入れる段階は過ぎ個別享受する形になっていて、阿倍一族は中央貴族だが、朝廷中枢には一族はおらず、五位級の中級官人家なので、さほど大きな役割を果たしたり、高い職位に就けなかったのではという指摘がある。
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