唐代の流刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:15 UTC 版)
続く唐代の流刑は日本の流罪にも大きな影響を与えたが、その特徴として以下の原則があったことが知られている。 罪の重さによって二千里・二千五百里・三千里の距離に分けられる(当時の唐の1里は約560m)。その基準に関しては、元の居住地とする説と都(長安)であるとする説がある。 配所にて、首枷を付けられた上で「居作」と呼ばれる強制的な労役を1年間科された。なお、三千里の配流に処せられた者のうち、特に罪が重い者は「居作」は3年間とされた。これを加流刑と称する。 流人の妻妾は必ず配所に同行しなければならない。ただし、父祖・子孫は希望によった。 居作の終了によって流刑は終了するが、そのまま現地の戸籍に附されてそこの民として残る人生を送ることになり、二度と元の居住地(大抵は故郷にあたる)に戻ることは許されなかった。 反逆罪やそれに連座した者(死刑から死一等を減ぜられて流刑になった者を含む)を除いては、配所到着から6載後(6回目の新年を迎えた後、6年後ではないことに注意)を経た者は仕官を許される(ただし、法によらず皇帝の意向で流刑にされた場合は3載後に短縮される)。 流内官品を持つ官人は「五流」と称される5つの罪(加流刑に相当する罪、反逆への連座、過失によって父祖を死傷させる罪、十悪の1つである不孝の罪、恩赦にあっても猶流刑に相当する罪)に該当しない限りは実際に流罪にはならない。流罪の場合は除名となり、官爵は剥奪されるが、居作は免除される。 以上の規定にも関わらず、皇帝の判断によって流罪に相当しない者の刑が重くなって流刑にされたり、新たに法令として格に追加されたりした。その場合、五流に相当しない官人でも除名・官爵剥奪の上で配流されることがある。また、刺史や上佐(別駕・長史・司馬などの地方における上級の補佐官)に貶官(左遷)させる処分が流刑の代替として行われることもあった。 とはいえ、流刑自体が儒教経典を根拠とする刑罰であり、その規定は社会の実情どころか、律令の他の規定とも整合性に欠ける場合があったために、唐における流刑の諸原則が確定した貞観11年(637年)制定の貞観律の制定からわずか3年後には実際の配所は特定の辺境の州に限定されることになり、距離別の規定が空文化した(罪が重ければ、より辺境に流されることにはなっていたが)。また、流刑に対する恩赦は配所到着前でなければ有効とされていなかったが、皇帝が恩赦の際に流人に対する恩赦の文言を加えることで有効とされ、実際に皇帝の恩恵を示すために流人の放還(元の居住地への帰還)や量移(都に近い場所への変更)が行われていた。更に配流された官人が6載後に再度仕官が許されると言う原則は実は流刑の本質と矛盾するものであった。すなわち、役人は自由な移動を禁じた律令の規定の対象外であり、再度仕官となれば配所から離れることが可能であったからである。更に理論上では庶民も商人などのように官の特別な許可があれば移動が可能であったから、配所における居作を終えて現地の戸籍に登録された元流人がその規定を利用して配所を出る可能性もあった。こうした矛盾を解消するために元和8年(813年)に6年過ぎた流人の放還が認められ、開成4年(839年)に制定された開成詳定格によって法令として正式に規定された。もっとも、この時期になると地方政治の混乱によって配所の地方官が流人の管理を行わずに、勝手に配所を抜け出して故郷に舞い戻ったり他所に放浪したりすることが行われ、終身にわたって配所に置いておくこと自体が困難になってきたことが背景としてあった。そして、黄巣の乱以後の一層の社会的混乱によって罪人の管理が困難になると、徒刑や流刑のような執行完了までに時間がかかる刑罰が敬遠され、杖刑や死刑による対応へと移ることになった。
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