唐代の変文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
唐代に入ると、寺院の俗講で三国物語が語られるようになる。俗講とは僧侶が仏教講話を行う際に、聴衆の興味を引きつけるために語られた唱道文芸である。難解な経文の意義を無学な民衆にも分かるように平易な言葉で説いたもので、それをテキスト化したものを「変文」という。唐から五代・北宋の時代に盛んとなったがその後存在が忘れられ、1907年に敦煌から出土した敦煌文献の中から写本が発見されたことで、再び知られるようになった。変文の文体は、韻文(七言絶句が多い)と散文が交互に現れるという、それまでの中国文芸には無かった特徴を持ち、インドの仏典からの影響が指摘されている。韻文・散文の混在は、語るだけでなく唱歌として聞かせることで、教養に乏しい聴衆への理解を助けるための工夫と思われる。この形式が宋代以降の講談にも受け継がれ、やがて『平話』や『演義』の文中に盛んに詩詞が挿入されることとなる。敦煌変文の中には三国時代の説話は見つかっていないが、俗講の中で語られた三国物語は大覚和尚『四分律行事鈔批』(714年)の註釈にも残されている。内容は史実とかけ離れた部分も多く、諸葛孔明が死後に一袋の土を足下に置き鏡で顔を照らすと、魏の占い師が孔明はまだ生きていると判断し、一月攻められなかったとするなど、孔明が全能の魔術師として扱われ始めている。 唐末の詩人李商隠が自分の子について詠んだ「驕児詩」(驕児はやんちゃな子供の意)に、「或いは張飛の胡(ひげ)をあざけり、或いは鄧艾の吃りを笑う」という文章があり、この時期にはすでに、子供たちまで張飛や鄧艾など三国の英雄を、その特徴とともに知っていたことが分かる。また唐を代表する詩人杜甫は、三国時代蜀と敵対した魏・晋の将軍杜預の子孫であるが、「蜀相」「詠懐古跡五首」など、諸葛孔明を悼み称える詩を詠んでおり、蜀漢正統論が受容されつつあったことを物語る。なおこの2つの詩は、後に毛宗崗が『演義』にも採り入れている。
※この「唐代の変文」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「唐代の変文」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。
- 唐代の変文のページへのリンク