唐代以降の復州と沔陽州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 07:52 UTC 版)
「沔州 (湖北省)」の記事における「唐代以降の復州と沔陽州」の解説
622年(武徳5年)、唐により沔陽郡は復州と改められた。742年(天宝元年)、復州は竟陵郡と改称された。758年(乾元元年)、竟陵郡は復州の称にもどされた。復州は山南東道に属し、竟陵・沔陽・監利の3県を管轄した。 宋のとき、復州は荊湖北路に属し、景陵・玉沙の2県を管轄した。 1276年(至元13年)、元により復州は復州路と改められた。1278年(至元15年)、復州路は沔陽府と改められた。沔陽府は河南江北等処行中書省に属し、玉沙・景陵の2県を管轄した。 1376年(洪武9年)、明により沔陽府は沔陽州に降格したが、玉沙県は廃止され、沔陽州に編入された。沔陽州は承天府に属し、景陵県1県を管轄した。 清のとき、沔陽州は漢陽府に属し、属県を持たない散州となった。 1912年、中華民国により沔陽州は廃止され、沔陽県と改められた。
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