古典主義への回帰(1880年代半ば-後半)
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「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「古典主義への回帰(1880年代半ば-後半)」の解説
ルノワールは、イタリア旅行でのラファエロとの出会いを機に、ニコラ・プッサンから新古典主義に至る絵画に興味を持つようになり、色彩重視からデッサン重視に転向した。そして、1883年頃から1888年頃にかけて、写実性の強い「アングル風」の時代が訪れる。 1882年末から1883年にかけて、ダンス3部作と言われる『ブージヴァルのダンス』、『田舎のダンス』、『都会のダンス』を制作した。『田舎のダンス』の女性のモデルはアリーヌ・シャリゴ、その他の2作品のモデルはシュザンヌ・ヴァラドンである。この当時、ルノワールは2人と二股の交際をしていたようで、1883年12月にシュザンヌが産んだ画家モーリス・ユトリロの父親は、ルノワールであるとする説がある。 1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。初期作品から近作まで約70点の中には、数多くの代表作が含まれ、印象派としてのルノワールを回顧する本格的な展覧会となった。デュラン=リュエルは、これと並行して海外での売出しを図り、ロンドンのニュー・ボンド・ストリートの画廊で開いた印象派の展覧会に、ヴェネツィアの風景画や『ブージヴァルのダンス』を含むルノワール9点を展示した。 同年(1883年)晩夏には、英領ジャージー、ガーンジーを訪れた。12月、モネとともに、新しいモティーフを探しに、地中海沿岸への短い旅に出た。モネは、この旅行について、「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした。」と述べている。2人の関心が変化したこともあり、かつてのように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。ポール・ベラールの別荘に招かれてその娘たちを描いた『ヴァルジュモンの午後』を制作したが、ベラールは、ルノワールの新しい画風を好まず、この後注文をやめてしまった。そのほかにも多くのパトロンが離れ、この時期ルノワールの絵は全く売れなくなってしまった。 1885年3月、アリーヌとの間に、後に俳優となる長男ピエール・ルノワール(英語版)が生まれた。その後、母子の健康のためと経済的理由から、一家は、ジヴェルニーに近いラ・ロシュ=ギュイヨン(英語版)に移った。この地から、デュラン=リュエルに宛てて、「私は昔の絵の柔らかい優美な描き方を、これから先再び取り入れていくことにしました。……新しさは全然ありませんが、18世紀の絵画を引き継ぐものです。」と書いている。同年秋、妻アリーヌの故郷エッソワ(英語版)を初めて訪れ、その後もこの地を気に入って度々訪れている。 デュラン=リュエルは、1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、ルノワールの作品38点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカの収集家が印象派に関心を持ち始める契機となった。同じ年、最後のグループ展となる第8回印象派展が開かれたが、画商ジョルジュ・プティの国際美術展に参加を決めていたモネ、ルノワールは参加しなかった。また、モネとともに、ブリュッセルの20人展にも参加した。 1886年頃から、ベルト・モリゾがパリの自宅で友人らを招いて夜会を催すようになったが、ルノワールはその常連客となった。また、モリゾを通じて、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親交を深めた。 1887年までにかけて、それまでに制作した女性裸体画の集大成として『大水浴図』を制作した。ルノワールは、それまでの制作方法と異なり、この作品のためにデッサンや習作を重ねた。作品の中には、明確な輪郭線となめらかな表面の部分と、筆触を残して色彩を強調した部分とが混在している。彼は、この作品を1887年のジョルジュ・プティの展覧会に出品した。ピサロは、「彼の試みは理解できます。同じところに留まっていたくないのは分かりますが、線に集中しようとしたために色彩への配慮がなく、人物が1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆の評価はむしろ好意的だった。フィンセント・ファン・ゴッホもこの作品を高く評価した。ルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆に認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだと思っています。」と書いている。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった。 1888年初めには、エクス=アン=プロヴァンスのジャス・ド・ブッファン別荘(英語版)にセザンヌを訪れ、一緒に制作した。ルノワールは、この年、激しい神経痛に見舞われるようになった。再び自分の作品に不満を持つようになり、美術批評家のロジェ・マルクス(フランス語版)に「私は、自分がこれまでに行ってきた全てを駄目だと感じており、それが展示されているのを見るのは、私にとって最も辛いことです。」と書き、パリ万国博覧会への展示に難色を示している。 『ブージヴァルのダンス』1883年。油彩、キャンバス、181.9 × 98.1 cm。ボストン美術館。 『田舎のダンス』1883年。油彩、キャンバス、180 × 90 cm。オルセー美術館。 『都会のダンス』1883年。油彩、キャンバス、179.7 × 89.1 cm。オルセー美術館。 『ヴァルジュモンの午後』1884年。油彩、キャンバス、127 × 173 cm。ベルリン旧国立美術館。 『大水浴図』1884-87年。油彩、キャンバス、117.8 × 170.8 cm。フィラデルフィア美術館。
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