古典主義への回帰とは? わかりやすく解説

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古典主義への回帰(1880年代半ば-後半)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:28 UTC 版)

ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「古典主義への回帰(1880年代半ば-後半)」の解説

ルノワールは、イタリア旅行でのラファエロとの出会い機にニコラ・プッサンから新古典主義に至る絵画興味を持つようになり、色彩重視からデッサン重視転向した。そして、1883年頃から1888年頃にかけて、写実性の強い「アングル風」の時代訪れる。 1882年末から1883年にかけて、ダンス3部作と言われるブージヴァルのダンス』、『田舎のダンス』、『都会のダンス』を制作した。『田舎のダンス』の女性モデルはアリーヌ・シャリゴ、その他の2作品のモデルシュザンヌ・ヴァラドンである。この当時ルノワール2人二股交際をしていたようで、1883年12月シュザンヌ産んだ画家モーリス・ユトリロ父親は、ルノワールであるとする説がある。 1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワール個展開かれた初期作品から近作まで約70点の中には数多く代表作含まれ印象派としてのルノワール回顧する本格的な展覧会となったデュラン=リュエルは、これと並行して海外での売出し図りロンドンのニュー・ボンド・ストリートの画廊開いた印象派展覧会に、ヴェネツィア風景画や『ブージヴァルのダンス』を含むルノワール9点展示した同年1883年晩夏には、英領ジャージーガーンジー訪れた12月モネとともに新しモティーフ探しに、地中海沿岸への短い旅に出たモネは、この旅行について、「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした。」と述べている。2人関心変化したこともあり、かつてのように共同制作から成果を得る手法難しくなったことを示している。ポール・ベラールの別荘招かれてその娘たち描いた『ヴァルジュモンの午後』を制作したが、ベラールは、ルノワール新し画風好まずこの後注文をやめてしまった。そのほかに多くパトロン離れ、この時期ルノワールの絵は全く売れなくなってしまった。 1885年3月、アリーヌとの間に、後に俳優となる長男ピエール・ルノワール英語版)が生まれたその後母子の健康のためと経済的理由から、一家は、ジヴェルニーに近いラ・ロシュ=ギュイヨン(英語版)に移った。この地から、デュラン=リュエルに宛てて、「私は昔の絵の柔らかい優美な描き方を、これから先再び取り入れていくことにしました。……新しさは全然ありませんが、18世紀絵画引き継ぐものです。」と書いている。同年秋、妻アリーヌの故郷エッソワ(英語版)を初め訪れその後もこの地を気に入って度々訪れている。 デュラン=リュエルは、1886年4月ニューヨークでパリ印象派油絵パステル画展」を開きルノワール作品38点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカ収集家印象派関心持ち始め契機となった。同じ年、最後グループ展となる第8回印象派展開かれたが、画商ジョルジュ・プティ国際美術展参加決めていたモネルノワール参加しなかった。また、モネとともにブリュッセル20人展にも参加した1886年頃から、ベルト・モリゾパリ自宅友人らを招いて夜会を催すようになったが、ルノワールその常連客となったまた、モリゾ通じて詩人ステファヌ・マラルメ知り合い親交深めた1887年までにかけて、それまで制作した女性裸体画集大成として『大水浴図』を制作したルノワールは、それまで制作方法異なり、この作品のためにデッサン習作重ねた作品中には明確な輪郭線となめらかな表面部分と、筆触残して色彩強調した部分とが混在している。彼は、この作品1887年ジョルジュ・プティ展覧会出品したピサロは、「彼の試み理解できます。同じところにまっていたくないのは分かりますが、線に集中しようしたため色彩への配慮がなく、人物1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆評価はむしろ好意的だったフィンセント・ファン・ゴッホもこの作品高く評価したルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだ思ってます。と書いている。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった。 1888年初めには、エクス=アン=プロヴァンスのジャス・ド・ブッファン別荘英語版)にセザンヌ訪れ一緒に制作したルノワールは、この年激し神経痛見舞われるようになった。再び自分作品に不満を持つようになり、美術批評家のロジェ・マルクス(フランス語版)に「私は、自分これまで行ってきた全てを駄目だと感じており、それが展示されているのを見るのは、私にとって最も辛いことです。」と書きパリ万国博覧会への展示難色示している。 『ブージヴァルのダンス1883年油彩キャンバス、181.9 × 98.1 cmボストン美術館。 『田舎のダンス1883年油彩キャンバス、180 × 90 cmオルセー美術館。 『都会のダンス1883年油彩キャンバス、179.7 × 89.1 cmオルセー美術館。 『ヴァルジュモンの午後1884年油彩キャンバス127 × 173 cmベルリン旧国立美術館。 『大水浴図』1884-87年。油彩キャンバス、117.8 × 170.8 cmフィラデルフィア美術館

※この「古典主義への回帰(1880年代半ば-後半)」の解説は、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の解説の一部です。
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