古典世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:18 UTC 版)
紀元前6世紀のギリシアの哲学者ピュタゴラスおよび同じく紀元前5世紀のパルメニデスが地球は球形であると洞観して以降、球体説はギリシア世界に急速に広まった。紀元前330年頃には、アリストテレスが自然学的理論と観察的根拠から地球は球形であると主張した。地球の周長は紀元前240年頃にエラトステネスによって初めて算出された。紀元後2世紀までにプトレマイオスが曲がった球から地図を作りだし、緯度・経度・気候の理論を発展させた。彼の『アルマゲスト』はギリシア語で書かれ、11世紀にやっとアラビア語訳を介してラテン語に翻訳された。 紀元前2世紀に、マロスのクラテスが地球儀を作ったがそこでは世界は大きな川もしくは大洋によって四つの大陸に分けられており、そのそれぞれに人が住んでいると考えられていた。オイクメネ(人の住んでいる地域)の裏側である対蹠地へは大洋および灼熱地帯(赤道地帯)に阻まれて到達できないと考えられた。この考えは中世の心性を強く拘束した。 ルクレティウス(紀元前1世紀頃)は重いものが向かう中心点など無限の時空に存在しないと考えたために地球球体説に反対した。それゆえ、地球の裏側では動物がさかさまに歩いているというのは不合理であると彼は考えた。1世紀までに、皆が地球球体説に同意していると大プリニウスが主張しているが、対蹠地の性質という点や大洋がなぜ曲がったままでいられるかという点で議論が続いた。大プリニウスも「[...]松かさのような形をしている」不完全な球である可能性を考察した。 古代末期にはマクロビウス(5世紀)やマルティアヌス・カペッラ(5世紀)のようなよく読まれた百科事典編集者が地球の周長、地球が時空の中心に位置するのかどうか、北半球と南半球の季節の違いその他の地理的な詳細について議論した。キケロの『スキピオの夢』に対する註釈の中で、マクロビウスは地球を時空の残りの部分からすれば取るに足らない大きさの球として描いた。
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