古典主義・産業革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:23 UTC 版)
「フランクフルト・アム・マイン」の記事における「古典主義・産業革命」の解説
グリュンダーツァイト地区 1830年頃から、堡塁施設の外側にヴェストエント、ノルトエント、オストエント(直訳するとそれぞれ「西側」「北側」「東側」)といった市区が建設された。中央駅の建設後、堡塁施設のすぐ西側に接してそれ以前にあった3つの駅(ヴェストバーンヘーフェ=西(諸)駅と総称されていた)の敷地跡に、1890年代にバーンホーフスフィアテルが建設された。 この3つの市区およびマイン川対岸に位置するザクセンハウゼンが住宅地として大きく発展した。フランクフルト市民は新鮮な空気を欲したのであった。建設はまず、エッシャースハイマー・ラントシュトラーセやボッケンハイマー・ラントシュトラーセといった郊外へ通じる道路沿いから行われた。1866年までの開発は、無計画に行われた。堡塁施設付近の曲がりくねった道路からその様子が現在も見て取れる。プロイセン時代になって初めて製図板の上で格子状の道路網が設計されるようになった。この時代に典型的な多角形の広場が建設され、視界を広く取るために障害となる教会の建物などが壊された。 建物は通常、5階から6階建ての密集したブロックの形式で建設され、それ以前の古典主義建築はその大部分が破壊され、建て替えられた。しかし地域的な特徴として、1880年になっても多くの場所で控えめな後期古典主義建築が優勢であり、ヴィースバーデン、ライプツィヒ、ベルリンといった同じ頃に発展した都市でこの時代以降に流行した過度に「ヴィルヘルム風」趣味の住居は流行しなかった。 1877年と1895年に合併したボルンハイムとボッケンハイムはこの都市景観の中に組み込まれ、新しい道路が造られ、フランクフルト市電がつながった。その特徴は今日に至るまで遺されている。20世紀の初めに建築責任者フランツ・アディッケスの下で、現在も通行量の多いフランクフルト・アレーリングが造られた。この道路は泡沫会社乱立時代(1870年代)に発展した地区間を緊密に連結している。この道路はおおむねフランクフルトの古い領邦境界線に沿って通っている。 この時代に典型的なのが、建物の質や機能の東西格差であった。19世紀から20世紀への転換期に、バーンホーフスフィアテルは贅沢なオフィス街、ヴェストエントは上品な富裕層の住宅地であったのに対して、ノルトエントからボルンハイムを経てオストエント一帯は中産階級や労働者たちの地域になっていた。こうした関係は第二次世界大戦以後逆転した。特に1960年代、70年代にオフィスを建設するためにバーンホーフスフィアテルやヴェストエントの帝国時代の建物が取り壊され、建て替えられるようになってから、中心地は徐々に東に移動していった。とりわけノルトエントやボルンハイムは、「スツェーネフィアテル」(先端の地域)としてジェントリフィケーションにさらされている。オストエントでの欧州中央銀行新庁舎建設やガルス市区付近でのオイローパフィアテルおよびスカイライン・プラザの建設は、泡沫会社乱立時代に開発された地区のさらなる発展を予見させるものである。 この街には、堡塁施設跡の他にも多くの庭園が造られた。ノルトエント東区には、たとえば、ヒムリッシェン・フリーデンスの中国風庭園を含むベトマン公園がある。ノルトエントには、ホルツハウゼン公園やギュンタースブルク公園がある。また、ヴェストエント北区の西部にはグリューネブルク公園がある。この公園内にはギリシア正教の教会や韓国風庭園がある。パルメンガルテン(椰子庭園)は1871年に設立された熱帯・温帯植物園である。約 2500 種類の植物が栽培されており、パパゲーノ音楽劇場やパルメン=エクスプレス公園鉄道などのアトラクションがある。そのすぐ隣には大学の植物園がある。これら3つの互いに隣り合った庭園は、フランクフルト中心街に近接した広大な緑地を形成している。オストエントのオスト公園は1907年に造られたフランクフルト初の市民公園で、隣接する工業地域の労働者たち住民の憩いの場となっている。
※この「古典主義・産業革命」の解説は、「フランクフルト・アム・マイン」の解説の一部です。
「古典主義・産業革命」を含む「フランクフルト・アム・マイン」の記事については、「フランクフルト・アム・マイン」の概要を参照ください。
- 古典主義・産業革命のページへのリンク