北部防衛線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「北部防衛線」の解説
詳細は「トラジメーノ・ライン(英語版)」、「ゴシック・ライン(英語版)」、「ガルファーニャの戦い(英語版)」、および「リグリア軍集団」を参照 独C軍集団司令官アルベルト・ケッセルリンクはローマ陥落によりグスタフ・ラインを突破された後、同様の山岳地帯を使った遅滞戦闘を行うことを計画し、中部からドイツ領オーストリアと隣接する北東部の間に複数の防衛線を構築した。またスイスのグラウビュンデン州と隣接するヴァルテリーナ地域にも要塞があり、同地はドイツの臨時軍政領域となっているトレンティーノ=アルト・アディジェ州を通じて旧オーストリアやバイエルンと近接しており、ドイツ側の最終防衛線であるアルプス国家要塞との連帯も期待された。事実上の首都であるミラノや、自身が滞在していたガルダ湖・コモ湖周辺にも近いこのヴァルテリーナ地域をムッソリーニはRSI軍の最終防衛線と考え、ミラノ陥落後は同地に戦力を結集する「Z条件」(ヴァルテリーナ防衛計画)を準備している。 1944年6月、ローマ占領を戦いの節目と考えていた連合軍の進撃速度は予想以上に早く、トラジメーノ湖を基点としたトラジメーノ・ラインは同月中に突破され、7月にはピサからフィレンツェにかけて構築されたアルノ・ラインに到達した。しかしフィレンツェでは女性を含めた義勇兵が武器を取って連合軍に抵抗しており、RSI軍の士気は依然として旺盛だった。そうした中、国民を鼓舞するRSI政府の声明はラジオ演説と機関紙によって行われていた。市街地ではパルチザンやレジスタンスによる枢軸国要人に対する暗殺計画が頻発し、連合軍との戦闘や爆撃も日常茶飯事となっていたイタリアにおいて、安全上の理由からドイツ政府やRSI政府はムッソリーニの演説会や式典への出席を勧めなかったのである。だが民衆と直接触れ合ってこそ意味があると見ていたムッソリーニの政治的信念は、枢軸軍が最後の戦いに挑む中で日に日に高まっていった。 1944年12月16日、ラジオ放送で「異例な重要性を持つ」行事が実施されるとだけ記された奇妙な布告が行われた。その「ある国家行事」とはムッソリーニによる演説会であった。安全性を担保するための苦肉の策として実施された臨時演説会であったが、驚くべきことに想像以上の群衆がミラノ市街地に詰め掛けていた。自らに未だ大きな影響力があることを実感したムッソリーニはパルチザンが含まれているかもしれないという治安部隊の提言を跳ね除けて民衆の前に姿を表し。ムッソリーニが乗った車がミラノの市街地を通行すると民衆は大歓声を挙げて車に群がり、ムッソリーニへ敬礼したり駆け寄って握手を求めたりした。 占領者ドイツを憎み、連合軍に対抗できない現実に失望していたイタリア国民もムッソリーニ個人への期待は失っていなかった。パルチザンに属する者達もその場に幾人か存在したが、連合軍やドイツ軍と並んで民衆から嫌われていた彼らは群衆を押しのけることもできず、あるパルチザンは自分達が支持されていないことを認める記述を残している。群衆を掻き分けてミラノのリリコ劇場に入ったムッソリーニは自身にとって最後となる演説を行い、ドイツへの戦争協力などは説かれず、代わりに最後までイタリア民族の勇気を示す様に民衆へ求めた。 1944年12月28日、ミラノでの演説から数日後に西部戦線で行われたバルジの戦い(アルデンヌ攻勢)に呼応して、イタリア戦線においても独C軍集団とRSI軍の攻勢が開始された。ドイツから帰国した共和国国防軍の四個師団はリグリア軍集団として投入され、イギリス軍、英領インド軍、アメリカ軍の連合部隊を破ってルッカ北西まで進み、一時はフィレンツェ近郊まで進出した(ガルファーニャの戦い(英語版))。バルジの戦いがそうであった様にやがては連合軍に押し返されたものの、RSI軍は設立から1年で連合軍に一矢報いる結果を残した。
※この「北部防衛線」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「北部防衛線」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。
- 北部防衛線のページへのリンク