労働戦線再編から現在
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「日本国家公務員労働組合連合会」の記事における「労働戦線再編から現在」の解説
1980年代のナショナルセンターの再編成(労働戦線再編)で総評内の並立状態は終わりを迎える。国公労連はこの再編構想を労働戦線の右翼再編であるとみなし、連合への合流に積極的な総評主流派の動きを批判。労戦再編の最終局面である1989年11月、国公労連は全労連の結成に参加し、一方、国公労協は連合体の日本国家公務員労働組合総連合会(国公総連)に移行した上で、日本労働組合総連合会(連合)へと流れ、両者は袂を分かつに至った。この分岐で全国公は消滅した。連合には国税労組や建職組など全官公(1959年結成。旧同盟系)加盟で、国公労連と競合する国公労も合流したが、連合結成後およそ10年間、国公総連と全官公系は統一した国公単産を結成できず、今度は連合内で並立状態が続いた。国公労連は国公労働運動における多数派産別の地位を保ち続ける。 1990年3月、組合員の福利厚生事業の一環として、日本国家公務員労働組合連合会共済会(国公共済会)を設立し共済事業をはじめた。 90年代末から連合内でも国公労統一の機運は高まり、2001年10月26日、連合の国公労は国公関連労働組合連合会(国公連合)を結成し、これを通じた一括加盟に移行した。結成当初の組合員数は、隣接分野の特殊法人と駐留軍の単産も取り込んだこともあり、公称で約13万5,000人に達し、国公労連を抜いた。この統合で国公労連は運動における相対的な多数派ではなくなり、運動は国公労連と国公連合に二分される局面に入った。国公連合結成後、最初の労働組合基礎調査によると2002年6月現在、国公連合の組合員数は約12万8,000人、国公労連は11万2,000人となっている。ただし、国公連合から政労連と全駐労を引くと、約8万1,000人となる。なお、国公総連は組織を保存し、国公連合に直加盟した。国公総連が解散したのは2011年10月のことである。 国公労連の支援の下、2003年12月14日、国公労連の加盟単位組合として、国公労働者の合同労働組合である国家公務員一般労働組合(国公一般)が結成された。勤務する省庁を問わず加入できる組合であり、東京霞が関の本府省を中心に増大する非常勤職員や派遣等の非正規国公労働者を組織化することを意図した。翌年7月20日、国公連合も同様の機能を担う「国公ユニオン」を設立した。 2011年3月の東日本大震災を受け、菅直人政権は復興財源の確保を理由として、2011年度から3年間、国家公務員給与を1割程度引き下げる方針を打ち出し、5月から国公労との交渉を始めた。国公労連は宮垣委員長を責任者として交渉に臨み、政府提案を拒絶した。復興予算は賃下げで確保できる金額より桁違いに大きいため財源たりえず、他部門の賃金水準への波及によって景気に悪影響を及ぼし、震災対応に携わる職員の士気を下げ、人事院勧告に基づかない給与引き下げは労働基本権を侵害している等と批判。国公労連と菅内閣の交渉は平行線を辿り、6月2日、片山善博総務相との最終交渉が決裂した。一方、連合系の国公連合は5月23日、団体協約締結権付与を柱とする公務員制度改革法と同時に成立させることを条件に、3年間、一般職平均7.8%の給与減額に同意した。6月3日、菅内閣は国公連合との合意内容に沿った法案を閣議決定し、国会に提出した。 2012年2月、民主・自民・公明3党は、政府法案とは別に「国家公務員の給与の改定及び臨時特例に関する法律」を国会に提出した。2011年度は2011年9月になされた人事院勧告を実施し、2013年度までの2年間だけ7.8%減額するというものであった。2月23日に衆議院で可決、29日に参議院を通過・成立した。この過程で、参議院総務委員会に国公労連から宮垣委員長が参考人として出席し、3党提出法案に反対する意見を陳述した。 5月25日、国公労連は東京地方裁判所に、給与臨時特例法施行によってカットされた給与の返還と慰謝料の支払いを国に求める「公務員賃下げ違憲訴訟」を提訴した。国公労連行政職部会と同組合員241名が原告である。訴状で臨時特例法およびその成立にいたる内閣総理大臣と国会議員の行為は憲法やILO条約等に違反しているとしている。
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