労働戦線統一
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1970年、全逓委員長の宝樹文彦が労働戦線統一を提唱する。1972年の総選挙での共産党の躍進と民社党の後退がこの提唱を無力化したため、この呼びかけはうまくいかなかった。だが山岸もまた、労働戦線が総評・社会党ブロックと同盟・民社党ブロックに分かれて対立することが続けば、労働組合の発言力は弱いまま、自由民主党(自民党)に取って代わることのできる野党がいつまでも育たない、と考えて労働戦線統一のために動いた。 労働戦線統一のためには、西側世界での世界的な労働組合の連合体である国際自由労連 (ICFTU) に加盟しておく必要があると考えた山岸は、1978年に全電通を国際自由労連に加盟させた。さらに全電通のPTTI加盟も実現し、1985年にはその会長に就任している。こうして全電通と国際的な労働団体との関係を深め、全電通の発言力を強化する一方、1978年には労働社会問題研究センターを立ち上げ、森田実を編集長とする『社会労働評論』を11年間にわたって発行し、国内で労働戦線統一の機運を高めるよう尽力した。 1985年の電電公社民営化に際しては、全電通の組織を温存するため「民営化賛成・分割反対」の姿勢で政府に臨み、NTTの分割を阻止した。一方、国鉄労働組合は最後まで「分割民営化両方反対」の強硬路線を貫いたため、強硬路線に付いていけない組合員の離反を招き、事実上崩壊した。 1987年に民間労組が先行して全日本民間労働組合連合会を結成すると、その副会長・会長代理に選出され、1989年に国公関連労働組合連合会(官公労)も含んだ日本労働組合総連合会(連合)が結成されると、その初代会長に選出された。
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