労働手段体系説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 06:36 UTC 版)
技術はギリシア語のテクネーを語源とし、英語や仏語でtechnicやtechniqueと呼ばれるものとなった。だが、日本語で「技術」という言葉が初めて使われたのは比較的最近で、西周の『百学連環』(1870)からである。そして日本で最初に技術とは何かを学問的に取り上げたのは、1932年創立の唯物論研究会(唯研)に属する戸坂潤、岡邦雄、永田広志、相川春喜らである。彼らは「技術とは労働手段の体系である」という労働手段体系説を主唱した。岡はこの規定が直接的にはブハーリン(Nikolai I. Bukharin)の著作に見出されることを指摘する。ブハーリンによれば、 技術とは外的自然の単なる断片ではない。それは、社会の延長された器官であり、社会的技術である。それゆえ、われわれは、社会をいままで述べてきたよりももっと広い意味で論ずることができる。このばあい、社会には、その「社会的存在」における物も、つまりまず何よりも社会の技術的体系もはいるのである。 …社会的技術は、個々の労働用具の堆積ではなくして、その連関した体系である。それは、この体系の各部分に残りのすべての部分が依存していることを意味する。それはまた、所与の各時期において、こういう技術のさまざまな部分が、一定の比例をたもって、一定の関係によって連関していることを意味する。 三枝博音や倉橋重史は、ブハーリンは技術について手段体系説を唱えたのではなく、社会的技術について言及していたとして、単なる「技術」と明確に区別する。 彼のいう社会的技術とは、たんなる労働手段の体系でない。そこに強調されているのは労働を通して生産過程に入ると、そこに生産社会という全体的な連関が成立つことにある。
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