第三の立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 06:36 UTC 版)
技術論論争は上記の労働手段体系説と意識的適用説との対立を軸に展開されていったが、労働手段体系説から転向した相川春喜、意識的適用説にその論理が継承されたとされる三木清、両方の説を修正した技術規定を行った三枝博音によって、それぞれ独自の視点が提示された。 三枝は唯研における労働手段体系説の元となったブハーリンの議論は「技術」ではなく「社会的技術」を語っていたとし、労働手段体系説における技術は社会的技術のことであると明確にすべきだと主張した。また、これまでの技術論における学説はすべて技術の本質を捉えるための試みではなくてはならないとしたが、「本質」という概念に安んじすぎてはならないという警告も発している。そこで三枝は、技術を現実的に認識するため、現実にある技術に向き合うため、技術の歴史を把握しようとした。そこで明らかにしたのは、われわれが現実において見る技術の現象は、労働のもろもろの手段が社会的連繋を具えている状態を通じて現れてくるということであった。三枝は技術の意識的適用説について一定の理解を示しつつも、技術は過程としての手段であるという独自の解釈を通し、社会技術については労働手段体系説を採用した。 三木は技術を物質的生産だけに限定せず、「技術は社会的諸関係の中に入り組んで存在する」とする。一方の社会は、諸個人が一つの身体に組織されている「社会的身体」である。その上で社会技術を次のように捉えている。 元来技術は主体の、特に知識を基礎として環境に対する働きかけであるが、環境に種々のものが考えられるように技術にも種々のものが考えられるであろう。我々の環境であるのは自然のみでなく、社会も環境である。自然に対する技術があるように、社会に対する技術がある。自然技術に対して社会技術Sozialtechnik即ち政治の如きものが存在している。前者が自然科学を基礎とするのに対し、後者は社会科学を基礎としなければならぬ。そしてあの産業革命の結果として生じた最も困難な問題が社会問題であり、その解決が現代の根本問題であることを考えると、むしろ社会的政治的技術が現代の技術として特に重要であると考えることもできるだろう。 相川は『技術論入門』(1942)において「生活が根柢的に社会的生活である以上技術も社会的であり、この社会的技術はあます処なく社会生活的目的に規定されねばならぬ」とした上で、その生活とは具体的には国民生活であり、「われわれが国家のための技術というとき、生活共同体のもつ社会的技術のすべてが、国家目的に動員され、国家的な合目的的実践のなかで生きることを意味するのである」。技術の概念は労働手段体系説と意識的適用説の二つが代表的であるとした上で、これら自然科学的ないし経済学的立場とは異なる哲学の立場から、技術を「ひろく行為的な概念とし、とくにその制作の形form of poesisに技術を認める思考を主要な傾向とする」第三の概念を提唱する。この第三の概念は三木清の「行為の形」としての技術概念にほぼ対応するものである。
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