第三の航海: 西アフリカ海岸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 17:06 UTC 版)
「ベンジャミン・モレル」の記事における「第三の航海: 西アフリカ海岸」の解説
1828年、モレルはクリスチャン・バーグ & Co. によって、スクーナー アンタークティックの指揮を任されたと記録している。この船はモレルが以前に南極海で挙げた功績を称えて名付けられていた。アンタークティックは1828年6月25日にニューヨークを離れ、西アフリカに向かった。その後の数か月で、モレルは喜望峰からベンゲラ(アンゴラ)まで広範な測量を実行し、内陸にも何度か短い紀行を行った。モレルはこの海岸の商業的な可能性について印象を受け、「ここ周辺ではヒョウ、キツネ、牛など多くの種類の毛皮や、ダチョウの羽根と貴重な鉱物を入手できる」と記録している。イチャボー島では、グアノの巨大な堆積物を発見しており、厚さは25フィート (7.5 m) あると報告した。そのような商業機会を目にしたモレルは、3万ドルも投資すれば2年の内に「100倍から150倍にも」利益を生み出すと記録している。 この航海の間、モレルは奴隷貿易を数回目撃したと記録している。最初はカーボベルデ諸島であり、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ各大陸からほぼ等距離にあるという特異な位置づけ故に、当時は奴隷貿易の中心だった。モレルは奴隷の状態が悲惨なものであることが分かったが、彼らの音楽に対する情熱を観察し、「奴隷の足かせが擦れて受ける痛みですら和らげられる」と記している。この航海の後の段階では、鞭うちの結果として死の苦しみにある2人の女奴隷を見たことなど、「恐ろしい野蛮さ」と叙述しているものを目撃した。その日誌の中では奴隷制度の悪について長々と独白した後、「その悪の根源、源、基礎は、貧しい黒人そのものの無知と迷信である」と結論付けている。交易という見地から、この航海は想像をはるかに上回る成功であり、1829年6月8日に帰郷を決めた。7月14日、ニューヨークに到着した。
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