スパルタクスからの分離と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 15:40 UTC 版)
「クリクスス」の記事における「スパルタクスからの分離と敗北」の解説
翌紀元前72年に反乱軍は北上を開始した。プルタルコスはアルプスを越えて奴隷たちを故郷へ帰すことが反乱軍の目的であったとし、一方、アッピアヌスやフロルスはローマ進軍が彼らの目的であったとしている。この際にクリクススは約3万人の集団を引き連れてスパルタクスとは別行動をとった。 ドイツのモムゼンやソ連のA・W・ミシューリンをはじめとする近現代の多くの研究者がスパルタクス派とクリクスス派とに反乱軍が分裂したとしている。逃亡奴隷の一部がアルプスを越えて脱出するよりもイタリアを略奪することを望んでいたとプルタルコスも述べており、彼は分離した集団を「傲慢さと無思慮によって、スパルタクスの本隊から離れたゲルマン人」と記している。紀元前1世紀の歴史家サッルスティウスの著作にはクリクスス派の人々は「敵に向かって進み、戦うことを欲した」との記述がある。 スパルタクスとクリクススが分離した原因については大まかに三つの立場があり、第一の立場は奴隷の故国帰還を計画するスパルタクスに対して、クリクススの集団はイタリアに留まり、略奪と復讐を続けることを望んだとする説である。第二の立場はドイツの歴史家モムゼンや西ドイツの古代史家フォークト(英語版)などが述べたもので、不和の原因を民族=種族対立に求め、トラキア人(ヘレニズム的バルバロイ)のスパルタクスの集団とケルト=ゲルマンのクリクススの集団とに分裂が生じたとする説である。第三の立場はA・W・ミシューリンが提唱し主にソ連の史家が支持した解釈で、不和の原因を社会的背景に求めるものであり、奴隷とこの反乱に参加した貧農との間に戦争目的を巡って立場の相違が生じ、イタリアに留まって土地の再分配の実現を求める貧農がクリクススに従ったとしている。 クリクススの名誉欲やスパルタクスに対する不信感といった個人的な感情を動機に挙げる研究者もいる。第二次世界大戦後になって、これまで通説となっていたスパルタクスとクリクススとの不和=不統一による分裂は存在せず、地域の分担による別行動に過ぎなかったとする説や両者に不和はあっても基本方針的なものではなく、反ローマ闘争の戦術的なものだったとする説も提起されている。自由農民の反乱参加を重視する研究者はスパルタクスの故国帰還計画に反対するクリクススはイタリアに生れて故国の記憶を喪失した奴隷や自由農民から支持を受けていたと想定している。 グラベルおよびウァリニウス両法務官の敗北に危機感を持った元老院はその年の執政官であったレントゥルス(英語版)とゲッリウス(英語版)の率いるローマ軍団を派遣した。ゲッリウスの軍団はイタリア南東部のアプリア地方のガルガヌス山麓(現在のガルガーノ(英語版))でクリクススの率いていた反乱軍30,000と戦った。この戦いについてはサッルスティウスの著作"Historiae"に若干の記述があり、数に劣るゲッリウスの軍団は高地に二列の戦列を組んで敵を待ち構え、クリクススがこれを攻撃したという。クリクススは兵を率いて丘に陣取るローマ軍に3度突撃したが突破できず、4度目の突撃で戦死した。クリクスス軍は壊滅し、反乱兵の3分の2が殺された。この戦いには後にカエサルの政敵となる若き小カトーも従軍しており、戦勝を悦んだゲッリウスは部将の小カトーにも褒賞を与えようとしたが、彼はこれを固辞したという。 その後、スパルタクスはレントゥルスおよびゲッリウスの軍団を連破して北イタリアに到達した。ここで、スパルタクスは戦死したクリクススの霊を弔うためにローマ兵の捕虜300人に死に至るまで剣闘士試合をさせ犠牲に捧げた。このスパルタクスの行為については、かつて剣闘士としてローマ人の慰みに闘わされたことへの復讐とする見方が一般的だが、スパルタクスの故国トラキアの故人に犠牲を捧げる葬儀慣行に則りとり行われたものであったとする説もある。 スパルタクスは何らかの理由によってアルプス越えを行わず、軍を反転させて再び南イタリアへと向かった。翌紀元前71年にスパルタクスの反乱軍はクラッススの軍団によってイタリア半島南端部に押し込められた。スパルタクスは決戦を挑んで敗れて戦死し、反乱軍は全滅した。
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