スパルタの服従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 15:31 UTC 版)
「メガロポリスのフィロポイメン」の記事における「スパルタの服従」の解説
ローマと講和したナビスは紀元前192年にアカイアとローマに対抗するために援軍として招いたアイトリア兵の裏切りにあって殺されたため、フィロポイメンはこの機に乗じて軍を率いてスパルタに向い、スパルタをアカイア同盟に加入させた。この時スパルタ人はフィロポイメンに僭主からスパルタを開放したとしてナビスの館を贈ろうとしたが、彼はそれを固辞してその清廉さを示した。 紀元前191年にフィロポイメンの次のストラテゴスであるディオファネスは反乱の気配があるとしてスパルタを攻めようとしたが、フィロポイメンはローマとシュリアがギリシアで矛を交えている時に早まった行動はすべきではないとして諌めたが、ディオファネスはそれを聞かず、ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスのローマ軍と共にスパルタに侵攻した。自分の言うことが聞き入れられずに怒ったフィロポイメンは単身スパルタに赴き、ディオファネスとフラミニヌスに対してスパルタ市の城門を閉ざした。 しかしその後のフィロポイメンのスパルタへの処置は以下のように苛烈極まるものであった。スパルタ人が何らかの敵対行動をしたとして紀元前188年にフィロポイメンはいくらかのスパルタ人(アリストクラテスによれば350人、ポリュビオスによれば80人)を処刑して市を囲む城壁を破壊し、スパルタの領土の一部をメガロポリスに付け足し、市民3000人を奴隷に売った。この時彼は多くの人々を追放した代わりにかつて追放されていたアカイア同盟に協力的なスパルタ人を呼び戻した。さらにリュクルゴスの定めた法制度を廃止してアカイア式の制度や教育を強いた。
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