スパルタクスとの対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:59 UTC 版)
「マルクス・リキニウス・クラッスス」の記事における「スパルタクスとの対決」の解説
詳細は「第三次奴隷戦争」を参照 紀元前70年代はローマ各地で反乱や戦争が勃発した時期であった。マリウスの時代よりローマを悩ませていたポントス王ミトリダテス6世との戦争には、当時のローマで最高の武将と称されたルキウス・リキニウス・ルクッルスが派遣され、最後のマリウス派であったクィントゥス・セルトリウスによるヒスパニアでの反乱(英語版)の鎮圧に当たっていたメテッルス・ピウスの支援にはポンペイウスが派遣された。 紀元前73年にイタリア国内で勃発した第三次奴隷戦争へ、元老院は当時の執政官ルキウス・ゲッリウス・プブリコラらに軍を率いて討伐に向かわせたがことごとく敗北した。クラッススは、自らの財産で訓練された新しい部隊を率いてスパルタクス軍を討伐すると申し出て、元老院はクラッススをスパルタクス討伐へ派遣した。クラッススはレガトゥス(総督代理)のムンミウスへ戦闘を避けて様子を窺うよう指示したものの、ムンミウスはスパルタクスへ戦いを仕掛けたため、ローマ軍は多くの死者を出し、兵の多くも逃亡する無残な敗北を喫した。クラッススは見せしめとして十分の一刑を兵士らに実施、これは極めて異例のことであり、兵士達を奮い立たせたものの、信望を失うことともなった。 紀元前71年、クラッスス率いるローマ軍団はルカニアでスパルタクス軍を包囲した。ヒスパニアからポンペイウス、トラキアからルキウス・リキニウス・ルクッルスの弟マルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルスがイタリアへ向かっていると知らせを受けたスパルタクスはクラッスス軍との戦闘を決意、両軍は激突したが、スパルタクスを含む多くの剣闘士・奴隷が戦死して、6,000人の反乱軍兵士を捕虜とした。クラッススは捕虜とした6,000人の兵士全てをアッピア街道に沿って磔刑に処した。処刑された奴隷兵の死体は下ろされずにしばらくの間見せしめとして晒されたと伝わっている。 クラッススはスパルタクスとの決戦に勝利はしたものの、北部への逃走を試みた約5,000の奴隷軍を殲滅させたポンペイウスが元老院に対し、「戦争を終わらせたのは自らである」と報告したため、奴隷戦争での第一の功をクラッススは失うこととなった。これによって、クラッススとポンペイウスの関係は抜き差しならぬ関係になることとなった。
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