労働政策とアジア移民排斥の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 14:58 UTC 版)
「カリフォルニア州の歴史」の記事における「労働政策とアジア移民排斥の動き」の解説
何千もの中国人が労働者として働くためにカリフォルニアに到着し、実業家に低賃金労働者として雇われた。長い間に、金山や都市で起こった紛争が白人と中国人労働者の間に偏見を生んだ。鉄道が完成した後の10年間におよぶ不況で白人労働者は中国人労働者を非難し始めた。多くの中国人が鉱山から追い出された。セントラル・パシフィック鉄道が開通した後で中国に戻った者もいた。残った者達の多くはサンフランシスコやその他幾つかの都市のチャイナタウンに移転し、他で味わった暴力的攻撃から比較的安全になった。 1850年から1900年までに、反中国で移民排斥の感情は数えきれないほどの法律を生むことになり、その多くは20世紀半ばになっても残った。最も目に余る逸話はおそらく1879年の新しい州憲法起稿と批准だった。デニス・カーニー(アイルランド移民)が率いる反中国人労働者党による活発なロビー活動のお陰で、州憲法第19条第4節で会社が中国人クーリーを雇うことを禁止し、カリフォルニアの全市と全郡には完全に中国人を追放するか住むことのできる場所を制限する権限を与えた。この条項は1952年に撤廃された。 1879年の州憲法制定会議では、連邦議会にむけて強い移民規制を嘆願するメッセージを発することも行い、これが1882年に中国人排斥法の成立に繋がった。この法は1889年に合衆国最高裁判所によっても支持され、1943年まで議会によって撤廃されることは無かった。同様な感情が1907年の日本との紳士協定(日米紳士協約)に発展し、日本は自発的に合衆国に向けた移民を規制することに合意した。カリフォルニア州は1913年に外国人土地法も成立させ、外国人、特にアジア人は土地の所有権を得ることを禁じた。1960年代までアジア生まれの者は合衆国市民権を取ることが難しかったので、土地の所有権はアメリカ市民となれるアメリカで生まれた子供達に渡された。この法律は1952年にカリフォルニア州最高裁判所によって違憲とされ撤廃された。 1886年、中国人の洗濯場所有者が中国人を洗濯業から締め出すサンフランシスコの条例の合憲性について異議申し立てを行い、合衆国最高裁判所はその中国人の肩を持つ裁定を下し、現代の平等保護という憲法に理論的根拠を与えた。一方、アジア移民に対する厳しい制限は在ったが、未熟練労働者と富裕な土地所有者の間の緊張関係は世界恐慌の頃まで続いた。小説家ジャック・ロンドンはオークランド市の労働者の闘争を題材に、その幻想的古典『月の渓谷』を書いた。この表題は海と山、レッドウッドとオーク、霧と日光の間のソノマ郡の原始的状態を想起させるものである。
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