出航、そして新大陸への到達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:06 UTC 版)
「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の記事における「出航、そして新大陸への到達」の解説
32歳(ないし33歳)のカブラル率いる艦隊は、1500年3月9日の昼にリスボンを出航した。前日にはミサや祝福の儀式を含む壮行式典が行われ、王や廷臣以下多くの人々が参集した。艦隊は3月14日の朝にカナリア諸島のグラン・カナリア島を通過、西アフリカ沿岸部のポルトガル入植地カーボベルデに向けて航行を続け、3月22日に当地へ至った。しかしその翌日、ヴァスコ・デ・アタイデ(英語版)の指揮するナウ船が150名の乗組員と共に消息を絶った。4月9日、艦隊は赤道を通過し、そのまま可能な限りアフリカ大陸を離れる西進航路をとった。これは当時volta do mar(英語版)(「海の折り返し」の意)と呼ばれていた航海術で、北大西洋環流(英語版)を利用する意図があった。4月21日、海藻が発見され、水夫たちは近くに陸地があるとの確信を抱いた。1500年4月22日の水曜日、その期待は現実のものとなった。カブラル艦隊は今日のブラジル北東部にあたる岸辺に至り、そこで投錨した。停泊地付近の山を、カブラルはモンテ・パスコアル(英語版)(「復活祭の山」の意。この日が復活祭のある週だったことによる)と名付けた。 一行は岸辺付近の住人について調査を行うこととし、4月23日、全船の船長たちがカブラルの旗艦に集められた。カブラルはガマのインド遠征にも携わっていたニコラス・クエリョに、住人との接触を試みるよう依頼した。クエリョは上陸後、当地の先住民たちと物品の交換などを行った。彼の帰投を待ってカブラルは艦隊を北上させ、4月24日、陸伝いに65kmほど進んだところで再度投錨し、その地が天然の港湾であることからポルト・セグーロ(「安全なる港」の意)と名付けた。この時、旗艦の操舵手アフォンソ・ロペスの手引きにより、先住民2名がカブラルとの会談を求め船内へやってきた。先の接触時と同様に会談は友好的に行われ、カブラルは彼らにいくらかの贈り物を渡した。この先住民は石器時代的な狩猟採集民であり、技術水準は平均的なインディオのそれと大差ないようであった。男性は狩猟や釣り、探索などで食料を集め、女性は小規模な作物栽培を行っていた。また先住民たちは無数の部族集団に分かれて対立抗争を行っており、この時カブラルに接触してきたのはトゥピニキーン族(英語版)であった。こういった部族集団の中には遊牧民もあれば定住民もいたが、金属を扱う技術を持つものはなかった。一部には人肉食を習慣とする集団もあった。4月26日、更に好奇心あふれる友好的な先住民集団が現れたので、カブラルは祭壇を築くよう部下たちに指示した。そして将来ブラジルとなるこの地を祝福する最初のキリスト教式ミサが開かれ、カブラル以下艦隊員たちもこれに参加した。 その後数日間かけて水、食料、木材といった物資の調達が行われた。ポルトガル人たちは更に、高さおよそ7mほどもある木製の十字架を作成した。カブラルはこの地について、スペインとの間に結ばれたトルデシリャス条約に基づけば東半球側になると確信していた。東半球側の領域はポルトガルの領土となる約定である。5月1日、当地をポルトガル領とする宣言と共に十字架がうち立てられ、併せて2度目のミサが行われた。この十字架にちなみ、カブラルは新たな領土をIlha de Vera Cruz(ポルトガル語版)(「真の十字の島」の意)と名付けた。翌日、輸送船1隻(ガスパル・デ・レモス(英語版)の指揮する艦か、アンドレ・ゴンサルヴェス(スペイン語版)指揮艦のどちらかだと考えられる。史料により記述が異なっている)が、国王へ領土発見を知らせるべく帰路に就いた。
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