冷戦後の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 07:00 UTC 版)
ドクメンタは毎回白人男性がディレクターであったため必然的に選ばれる作家も西欧か北米の作家が多く、偏りが指摘されていた。特に1980年代にはアジアや中南米、アフリカの作家を取り上げる展覧会が各地で開催され風向きを変え(例:「大地の魔術師たち」展、ポンピドゥー・センター)、またフェミニズムが美術の世界でも影響を強め第三世界の作家や女性作家を取り上げることも課題となった。 そして冷戦後、ドクメンタは対東側の美術戦略拠点としての役割を終えた。現代美術自体が欧米だけでなく旧東側諸国やアジア・アフリカ・中南米など多様な国からも発信されるようになり、それらを一括りに定義付けることは困難になり、もはやドクメンタの意義は薄らぎ形骸化したかのように指摘されるようになった。 冷戦終結後初の第9回(1992年)ではベルギー人のヤン・フートがディレクターに選ばれたが、統一テーマは設けられなかった。また物故者であるにもかかわらずヨーゼフ・ボイスの作品が出展された。37カ国からの作家が選ばれ日本人は川俣正、舟越桂、竹岡雄二、片瀬和夫、長沢英俊が出展したが、欧米中心のきらいはあり近郊ではドクメンタに対抗した『他文化との遭遇展』が開催された。 1997年の第10回で初の女性ディレクター、フランス人のカトリーヌ・ダヴィッドが就任。欧米中心の作家選定であったが、会期中毎日レクチャーを行い、コンセプチュアルアートや映像・写真を中心とした意欲的な展示を行った。 2002年の第11回は一転し、初めてのアフリカ出身者であるナイジェリア人オクウィ・エンヴェゾーがディレクターに就任し「グローバリゼーション」を主題にした。多様な国からの作家参加と、旧植民地や内戦をテーマに極めて政治性・社会性の強いドキュメンタリー的な映像作品の多さが特徴であった。他都市での巡回展との共催、シンポジウムなどを積み重ねて展覧会本番に結びつける展覧会作成のプロセスなど、いくつかの手法がわかりにくいと批判されたが今後の展覧会のあり方の参考として注目も浴びた。 2007年の第12回はロゲール=マルティン・ビュルゲルがディレクターとなり、「近代は我々の古代/過去か」「グローバリゼーションの中での剥き出しの生とはなにか」「美術の教育において我々は何をなすべきか」の3つを大まかなテーマとした展示が行われた。会場はカッセル各地の展示空間や宮殿にまで広がる過去最大のものとなり、中世から現代までの世界各地作家の作品が注釈なしに並べられた。全体にこの時期のグローバリズムや現代美術市場の加熱に対するアンチテーゼとなる作品が目立ち、各地の国際展やアートフェアでの人気作家を招待していないことも特徴となった。 2012年には、日本からは、現代美術家・大竹伸朗(「MON CHERI: A Self-Portrait as a Scrapped Shed」)と、takram design engineering(「Shenu: Hydrolemic System」)の田川欣哉、渡邉康太郎、カズ・ヨネダ等が参加した。 第14回(2017年)は、ポーランド出身のアダム・シムジック(Adam Szymczyk)がディレクターとなり、「アテネに学ぶ(Learning From Athens)」とテーマとした。ギリシャの首都アテネにも会場を設け、アテネとカッセルでほぼ同内容の展覧会を開催した。カッセル以外を会場としたのは初めてであった。西洋文明の起源の地でもあり、2015年欧州難民危機では中東・アフリカ移民のヨーロッパ流入の最前線となり、2010年欧州ソブリン危機ではユーロを守るためにドイツに緊縮財政を押し付けられて経済や社会の危機を経験したギリシャを、ドイツを代表するアートイベントが大きく取り上げ、会場も移したことは、大きな反響を呼んだ。美術家などのインタビューを放送するラジオ番組なども設けられた。
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