冷戦後の調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:15 UTC 版)
ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチの風潮が高まると、事件の真相を公表すべきとの動きが現れた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会(ロシア語版)が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフらはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。 1990年4月13日、国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した。同日、ゴルバチョフはポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領と会談し、カティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエとピャチハキ、ビコブニアの事件も含まれていた。 ポーランド人の虐殺をスターリンに提案するベリヤの1940年3月5日付書簡(1ページ目) ポーランド人の虐殺をスターリンに提案するベリヤの1940年3月5日付書簡(2ページ目) ポーランド人の虐殺をスターリンに提案するベリヤの1940年3月5日付書簡(3ページ目) ポーランド人の虐殺をスターリンに提案するベリヤの1940年3月5日付書簡(4ページ目) 1992年、ソ連崩壊後のロシア政府は、最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリンおよびベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4,421人、ミエドノイエで6,311人、ハルキエで3,820人、ビコブニアで3,435人であり、残りの3,870人は依然として消息不明のままである。
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