冷戦後の路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:46 UTC 版)
「ムアンマル・アル=カッザーフィー」の記事における「冷戦後の路線」の解説
アメリカによる経済制裁を受けて以降、カッザーフィーの態度には変化が訪れる。 1988年3月3日にカッザーフィーはトリポリにある刑務所の壁を自らブルドーザーを運転して破壊、囚人400人を恩赦により解放するパフォーマンスをおこなった。こうしたポピュリズム的な派手なパフォーマンスで国民から支持を得る一方で、1999年にはパンナム機爆破事件の容疑者のハーグ国際法廷への引渡しに応じ、2003年8月、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意した。カッザーフィーは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に際して、アラブ諸国の中でアル=カーイダに対する激しい非難を表明した指導者の1人であり、世界的なテロ批判の風潮に乗りリビア国内のイスラーム過激派組織「リビア・イスラーム戦闘団」と戦った。 さらにはイラク戦争の後、ジョージ・W・ブッシュ政権率いるアメリカなど西側諸国によって新たな攻撃対象にされるのを恐れてか、2003年末には核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。そして2006年5月15日にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。リビア政府はパンナム機爆破事件などの遺族補償として、15億ドルを米政府に支払った。一方の米側も、一連のテロの報復として米軍機がリビアを空爆した際の民間被害に対し、3億ドルの支払いに応じていた。2008年10月にはアメリカ人犠牲者への補償金の支払いが完了し、国交を完全に正常化。2009年7月のラクイラサミットでは、夕食会の記念撮影の際にバラク・オバマ米大統領と握手を交し、国交正常化を印象付けた。なおオバマ大統領についてカッザーフィーはリビア国内での演説で「オバマはイスラム教徒である」との誤った認識を語ったことがある。 こうした態度の変化には、カッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「汎アフリカ主義」に移行しつつあるのでは、と指摘する意見がある。事実、2000年にトーゴで開かれたアフリカ統一機構 (OAU) 首脳会議に、長年同機構とは疎遠であったカッザーフィーが出席して地域統合の必要性を唱え、2002年のアフリカ統一機構からアフリカ連合への改組ではリビアは主導的な役割を果たした国の1つだった。 2009年9月にリビア革命40周年記念式典が行われ、リビア原油の主要輸出先であるイタリアのベルルスコーニ首相が植民地支配の謝罪・賠償合意に訪問し、式典にはベネズエラのチャベス大統領、スーダンのバシール大統領、ジンバブエのムガベ大統領、カタールのハマド首長、フィリピンのアロヨ大統領、イラクのハーシミー副大統領らが姿を見せ、最高指導者のカッザーフィーと笑顔で握手するなどした。リビアの国営通信社によると約50カ国から首脳や閣僚らが参列したが西側諸国は参加せず多くはアフリカや中東諸国だった。
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