再開発への経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 07:42 UTC 版)
北上川五大ダムの比較ダム河川高さ(m)総貯水容量(m3)完成年石淵ダム 胆沢川 53.0 16,150,000 1953年 田瀬ダム 猿ヶ石川 81.5 146,500,000 1954年 湯田ダム 和賀川 89.5 114,160,000 1964年 四十四田ダム 北上川 50.0 47,100,000 1968年 御所ダム 雫石川 52.5 65,000,000 1981年 石淵ダムの完成により胆沢川の治水安全度は向上し、胆沢扇状地における灌漑はダム建設前に比べ飛躍的に安定した。ダムによって安定した農業用水が図られたことで胆沢扇状地における新規開墾農地面積は拡大し、特にイネの作付け面積と収穫量が増加した。しかし農地面積の拡大と収穫量の増加は次第に石淵ダムで当初予測していた供給量を超える取水量となり需給のバランスが崩れ、渇水時には再び胆沢扇状地が水不足に陥る事態が発生するようになっていった。また胆沢川は小規模な洪水が多くダムでは洪水調節のための放流が頻繁に行われており、1963年末までの最盛期には年間200 - 350回近くの放流操作が実施されていた。 こうした需給バランスの不均衡や放流操作の多さに対して受益地である地元を中心に石淵ダムを嵩(かさ)上げして治水・利水能力の増強を求める声が上がり、1967年(昭和42年)には「石淵ダム嵩上げ推進期成同盟会」が結成され石淵ダム再開発事業の実施を建設省に要望した。石淵ダムは北上川五大ダムの中では最も総貯水容量が小さく(別表)、ダム自体の能力を増強することが増え続ける水需要と治水安全度の向上に対応するためには必要と考えられたことが、会の結成に至った理由である。同盟会発足の2年後、建設省は石淵ダム再開発事業として「新石淵ダム計画」を発表し石淵ダム下流約2キロメートルに新ダムを建設するための予備調査を開始した。 しかしその後も水不足は進行し1984年(昭和59年)以降は例年のように取水制限が頻発、特に1994年(平成6年)には48日におよぶ取水制限が実施された。こうした需給バランスの崩壊は胆沢川の流量にも影響を及ぼし、供給量を上回る取水によって胆沢川は夏季になると水の流れない「枯れ川」になることがしばしばであった。石淵ダムには河川の流量を維持する水の補給目的がなく、ダム下流から20キロメートル区間が「枯れ川」となり生態系など河川環境にも影響が出るようになった。これに加え東北自動車道や東北新幹線の開通は沿線となる水沢や江刺の人口増加につながり、上水道・下水道や電力の需要も増大するという状態であった。放流操作についても最盛期よりは減少したものの1990年末までの年間平均で68回の放流を行っている。 このように石淵ダム計画時には想定されなかった治水・利水における新たな問題が歳月と共に顕在化した。水需要の増加に対応するための対策として1969年より新石淵ダム計画の調査が進められ、調査開始から14年を経た1983年(昭和58年)4月に胆沢川総合開発事業として正式な事業に採択されダムの高さを116メートルに大幅な嵩上げをする計画となり、1988年4月より建設事業に着手したが事業着手時に地元の要望を受け新石淵ダムの名称は改められ、胆沢ダムとなった。
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