バランスの崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:33 UTC 版)
1958年にはアラブ民族主義の台頭を背景に、ムスリムによるレバノン紛争(英語版)が発生する。この時はアメリカ海兵隊が派遣されてすぐに鎮圧された。しかし、度重なる中東戦争、さらに1970年に発生したPFLP旅客機同時ハイジャック事件をきっかけに起きたヨルダンによるパレスチナ解放機構(PLO)追放(ヨルダン内戦、黒い九月事件)が発生すると、多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入。イスラム教徒数の自然増加と相まって政治バランスが崩れ始めた。国内にレバノン国軍以上の軍事力を持つパレスチナ難民の存在にマロン派からは懸念が示され、武力によって難民を追放しようという動きも出てきた。 PLOの流入の結果、流血の事態を恐れたレバノン政府は、彼らに対して自治政府並みの特権を与え、イスラエルへの攻撃も黙認する事となった(カイロ協定。1994年にイスラエル・パレスチナ間で締結された同名の協定とは別)。これは当初、極秘に取り交わされたが、マスコミに暴露された結果レバノン社会、特にマロン派に衝撃を与えた。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立。国軍に彼らを押さえ込む力が無かった結果の措置だったが、イスラエルには明確な敵対行動としか映らなかった。イスラエル軍は空軍及び特殊部隊を動員してレバノン南部やベイルートを攻撃。当時の国軍は一定の空軍力こそ保有していたが(ミラージュ3EL戦闘機、ホーカー ハンター戦闘攻撃機を装備)、政治力学上の理由で報復する事はできなかった。この姿勢がムスリムの怒りを買う事となった。 結果、優位保守を主張するマロン派と、政治力強化を求めるムスリムおよびパレスチナ難民との間で対立が激化する。ファランヘ党をはじめとするマロン派の武装勢力は、アメリカやソビエト連邦から様々な重火器を調達し、自派の民兵組織を強化した。また、ムスリムもPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、アマル(シーア派)やタウヒード(スンナ派)といった民兵組織を構築していった。1970年代前半には、高級リゾートホテルが立ち並ぶベイルート港に、次々に新品の軍用車両や火砲が荷上げされるという不穏な光景が数多く見られるようになった。
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