バランシンとの離婚、晩年と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 00:28 UTC 版)
「タナキル・ルクレア」の記事における「バランシンとの離婚、晩年と死」の解説
バランシンは買い物や料理などを自分で行い、ルクレアの身の回りの世話やリハビリテーションなどもこなしていた。しかし、踊ることができない妻は「ミューズ」たり得ることはできず、バランシンの前には新たな恋の対象が登場していた。恋の対象となったのは、スザンヌ・ファレル(英語版)というバレエダンサーであった。 ファレルは1945年生まれで、バランシンより41歳年下であった。彼女は長身でスレンダーな体格でしなやかな四肢を持ち、バランシンの「ミューズ」となったどの妻たちよりも舞踊技巧に秀でていた上に優れた音楽性や抒情性も兼ね備えたダンサーであった。バランシンはファレルを「ストラディヴァリウス」と形容し、彼女の存在や可能性を自らの作品においていかに生かすかの探求を続けた。やがてバランシンは、かつてルクレアに恋したときと同様にこの才能ある若いダンサーに惹きつけられていった。 ルクレアとバランシンの結婚は、1969年に解消された。ただし、ファレルはバランシンとの結婚を強硬に拒絶した。バランシンの離婚とほぼ同時期に、ファレルは同僚のダンサー、ポール・メヒアと結婚した。その結果メヒアは役をもらえなくなったため、ファレルとともにNYCBを去って行った。 このような顛末に対するバランシンへの非難は大きかったが、彼は後年までルクレアの生活保障を何よりも心配していた。1978年に心臓発作に見舞われた後にバランシンは遺言状を書き、ルクレアに対して定期預金と本の印税を分与した。その後1983年4月30日にバランシンは没し、彼が振り付けた主要な作品のアメリカ合衆国内での上演権も彼女のものとなった。 バランシンと別れた後のルクレアは、1974年から1982年までNYCB出身のアーサー・ミッチェル(en:Arthur Mitchell (dancer))が設立したダンス・シアター・オヴ・ハーレム(en:Dance Theatre of Harlem)でレッスンを担当し、バランシン作品の指導も務めた。雑誌のインタビューに応じたりNYCBの公演を観客として観に行くこともあったが、積極的に公の場に出ることはほとんどなかった。 1998年11月24日、NYCB創立50周年記念シーズン開幕を迎えたニューヨーク州立劇場の客席にルクレアの姿があった。その日の公演では、50年前と同じ演目が上演された。上演の後に、ルクレアの現役時代を回顧するビデオが流された。NYCBの芸術監督ピーター・マーティンス(en:Peter Martins)が客席のルクレアに花束を捧げると、観客たちはスタンディング・オベーションで彼女を讃えたという。 離婚後のルクレアは「一人の男性しか愛せない女」と称して独身を通した。ジェローム・ロビンズを始めとする親しい人々との交流とコネチカット州ウェストン(en:Weston, Connecticut)で過ごす日々を喜びとし、2000年12月31日にニューヨーク市内の病院で肺炎のために世を去った。その日はかつての夫、バランシンとの結婚記念日でもあった。
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