バランシンとの出会いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > バランシンとの出会いの意味・解説 

バランシンとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 00:28 UTC 版)

タナキル・ルクレア」の記事における「バランシンとの出会い」の解説

タナキル・ルクレア1929年パリフランス人の父とアメリカ人の母の間に生まれた。父は詩人大学教授、母はセントルイス出身であった。名の「タナキル(タナクィル)」は王政ローマ5代目の王タルクィニウス・プリスクス王妃、タナクィル(英語版)に由来し友人たちからは「タニィ(Tanny)」の愛称呼ばれていた。ルクレアが3歳のとき、一家アメリカ合衆国移りニューヨーク居住したバレエ始めたのは、7歳のときであった。スクール・オヴ・アメリカン・バレエ(SAB)への入学希望していたものの、年齢が若すぎたため入学許可下りず、ミハイル・モルドキン(英語版) に師事してバレエ学んだ1941年秋にSABが初実施した奨学生オーディション受けた。このオーディションは、入学志望者の中で最も優れた5名を奨学生として選抜するというものであった。ルクレアは130名の応募者の中から選抜されSAB一員となった。このオーディションでは、バランシン自身審査委員長務めていた。バランシンはルクレアの容姿落ち着いた態度注目して「彼女はすでに正真正銘バレリーナのように見える。まるで望遠鏡反対側から覗いてみているように、とても小柄だがね」と評している。 SABへの入学後当時12歳のルクレアが未来配偶者となるバランシンから最初にかけられたのは、叱責言葉であった。彼は「君は何て手に負えない生意気な子なんだ」と言い、「そんなきどったかわいい子ぶったそぶりをして見るに耐えないよ」と続けて部屋から退出するように命じた。ルクレアがバランシンに対して抱いたのは、「頑固なわからず屋で、すごくつまらない先生」という第一印象であり、彼のどこが偉大であるのか全く理解できなかった。 時が経過するにつれて、ルクレアはバランシンに憧れの念を抱くようになった。バランシンに憧れたのは彼女1人だけではなくSABクラスメートたちも同様であったレッスンときにはバランシンの気を惹くためにわざと間違えてみせたり別の指導者担当するレッスンではおしゃべり興じていたりするなど、真面一方生徒ではなかったという。バランシンは彼女を呼び出して説諭したことさえあったが、ルクレアの才能一目置くようになっていた。 1944年1月、バランシンはポリオ救済チャリティー運動のために『復活』(Resurgence)という小品振り付けた。『復活』はモーツァルト弦楽四重奏曲振り付けたもので、バレエレッスン場が舞台であった。レッスン場でバレエ基礎訓練に励む少女たちに、黒づくめ怪人物ポリオ」が忍び寄っていく。「ポリオ」が少女1人触れると、少女痙攣起こしてフロア倒れ伏す。足が動かなくなった少女は、車いす乗せられて腕と上体のみでヴァリアシオンを踊る。作品最後で、少女奇跡回復遂げ喜びの中で踊りながら舞台退場していく。この少女踊ったのが当時15歳のルクレアで、「ポリオ」はバランシン自身踊り演じていた。後にバランシンは、この起用深く悔いることになった

※この「バランシンとの出会い」の解説は、「タナキル・ルクレア」の解説の一部です。
「バランシンとの出会い」を含む「タナキル・ルクレア」の記事については、「タナキル・ルクレア」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「バランシンとの出会い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バランシンとの出会い」の関連用語

バランシンとの出会いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バランシンとの出会いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのタナキル・ルクレア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS