バランシンとの出会い
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「タナキル・ルクレア」の記事における「バランシンとの出会い」の解説
タナキル・ルクレアは1929年にパリでフランス人の父とアメリカ人の母の間に生まれた。父は詩人で大学教授、母はセントルイスの出身であった。名の「タナキル(タナクィル)」は王政ローマ5代目の王タルクィニウス・プリスクスの王妃、タナクィル(英語版)に由来し、友人たちからは「タニィ(Tanny)」の愛称で呼ばれていた。ルクレアが3歳のとき、一家でアメリカ合衆国に移り、ニューヨークに居住した。 バレエを始めたのは、7歳のときであった。スクール・オヴ・アメリカン・バレエ(SAB)への入学を希望していたものの、年齢が若すぎたため入学の許可が下りず、ミハイル・モルドキン(英語版) に師事してバレエを学んだ。 1941年の秋に、SABが初実施した奨学生オーディションを受けた。このオーディションは、入学志望者の中で最も優れた5名を奨学生として選抜するというものであった。ルクレアは130名の応募者の中から選抜されてSABの一員となった。このオーディションでは、バランシン自身が審査委員長を務めていた。バランシンはルクレアの容姿と落ち着いた態度に注目して「彼女はすでに正真正銘のバレリーナのように見える。まるで望遠鏡を反対側から覗いてみているように、とても小柄だがね」と評している。 SABへの入学後、当時12歳のルクレアが未来の配偶者となるバランシンから最初にかけられたのは、叱責の言葉であった。彼は「君は何て手に負えない生意気な子なんだ」と言い、「そんなきどったかわいい子ぶったそぶりをして見るに耐えないよ」と続けて、部屋から退出するように命じた。ルクレアがバランシンに対して抱いたのは、「頑固なわからず屋で、すごくつまらない先生」という第一印象であり、彼のどこが偉大であるのか全く理解できなかった。 時が経過するにつれて、ルクレアはバランシンに憧れの念を抱くようになった。バランシンに憧れたのは彼女1人だけではなく、SABのクラスメートたちも同様であった。レッスンのときにはバランシンの気を惹くためにわざと間違えてみせたり、別の指導者が担当するレッスンではおしゃべりに興じていたりするなど、真面目一方の生徒ではなかったという。バランシンは彼女を呼び出して説諭したことさえあったが、ルクレアの才能に一目置くようになっていた。 1944年1月、バランシンはポリオ救済チャリティー運動のために『復活』(Resurgence)という小品を振り付けた。『復活』はモーツァルトの弦楽四重奏曲に振り付けたもので、バレエのレッスン場が舞台であった。レッスン場でバレエの基礎訓練に励む少女たちに、黒づくめの怪人物「ポリオ」が忍び寄っていく。「ポリオ」が少女の1人に触れると、少女は痙攣を起こしてフロアに倒れ伏す。足が動かなくなった少女は、車いすに乗せられて腕と上体のみでヴァリアシオンを踊る。作品の最後で、少女は奇跡の回復を遂げ、喜びの中で踊りながら舞台を退場していく。この少女を踊ったのが当時15歳のルクレアで、「ポリオ」はバランシン自身が踊り演じていた。後にバランシンは、この起用を深く悔いることになった。
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