内モンゴル自治区の文革
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「文化大革命」の記事における「内モンゴル自治区の文革」の解説
内モンゴルでは、文革勃発後に内モンゴル人民革命党粛清事件などのジェノサイドが発生し、モンゴル人は自治権を完全に剥奪された。当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人のうち、34万6000人が逮捕され、2万7900人が殺害され、12万人が暴力を受けて障害者にされた。文革でモンゴル人に着せられた「罪」は二つあり、「第一の罪」は、1930年代に日本が満洲国を建国し、内蒙古に蒙古聯合自治政府を樹立したのをモンゴル人が協力したという「対日協力」であり、「第二の罪」は、敗戦により日本が内蒙古から撤退した後にモンゴル人は中国に属することを望まず、モンゴル人民共和国との内外モンゴル統一を要求したことである。この二つの「罪」により、漢人入植者は「民族分裂の歴史」だと断じて34万人を逮捕し、2万7000人以上を大量虐殺した。 北京在住の作家の啓之(元北京電影学院)は、文革中の内モンゴル自治区で行われたモンゴル人大量虐殺事件を、漢民族による抑圧がモンゴル人虐殺の直接的原因だと指摘、モンゴル人と漢民族との和解が成立していないのは、真相究明が遅々として進んでいないこと、民族間紛争をもたらした漢民族に問題を解決しようとする真摯な態度が欠如し、責任を回避してきたことを挙げている。 南モンゴル出身の楊海英によると、内モンゴルでは文化大革命が勃発すると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた。内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、文革による犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3000万人に激増した。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(中国人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた中国人はいつの間にか3000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。中国人による植民地開拓のプロセスは基本的に同じです」と述べている。 アルタンデレヘイ(中国語: 阿拉騰徳力海)は、文革時のモンゴル人ジェノサイドで「50種以上の拷問」が考案されたことを紹介しており、「中国共産党はまず、ウランフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。文字を読める人は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」と批判している。 文革終息後、中国政府はジェノサイドをおこなった漢人入植者を処罰しなかったことから、1981年にモンゴル人大学生による大規模な抗議活動がおこなわれたが、当局の厳しい弾圧に遭い、抗議活動を支援したモンゴル人幹部や文革を生き延びた人々は全員粛清され、モンゴル人大学生も辺鄙な地域へ追放されて公民権を剥奪された。
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