保存に向けた動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:55 UTC 版)
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の記事における「保存に向けた動き」の解説
白川郷と五箇山の集落地帯は、有数の豪雪地帯であったことから周囲との道路整備が遅れ、結果として奇跡的に合掌造りの住居構造が残ることになった。それに関する研究は明治・大正期にも見られたが、秘境に奇妙な民俗を見出そうとするような興味を中心におき、質の高いものではなかった。かつて合掌造りが天地根元造から派生したとする説があったのも、「秘境」には原始的なものが残っているはずという偏見に基づいたのではないかといわれている。 その後、1930年代に日本の主要な建築物を見て回っていたドイツの建築家ブルーノ・タウトは、1935年(昭和10年)5月17日と18日に白川村を訪れ、同じ年の講演においてこう評した。 これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独特の存在である。 — ブルーノ・タウト、「日本建築の基礎」(於華族会館、1935年(昭和10年)10月) この評価は、民家研究の黎明期にあった日本において、合掌造り家屋の価値を認識させる上で重要だったとされる。タウトのこの評言は、後に日本政府が世界遺産に推薦する際に、合掌造り集落が持つ顕著な価値の証明としてそのまま引用することになる。 しかし、第二次世界大戦後は電源開発の影響、産業の衰退、人口の都市部流出などもあって、多くの家屋が廃屋となった。庄川流域にはいくつものダムが建造されたが、特に日本最大級のロックフィルダムである電源開発の御母衣ダム(1961年(昭和36年)完成)の建設時には、白川郷の4集落が水没した。ほぼ同じ時期(1963年(昭和38年))に大豪雪によって集落が半年も孤立した状況も、外部への人口流出を促進したとされ、高度経済成長期を通じて消滅した集落は17に及び、合掌造り家屋は1945年(昭和20年)の300棟からほぼ半減した。同時に、相次ぐダム建設や高速道路建設などの公共事業の存在は、第一次産業人口の減少と相まって、残された地域の産業構造を変化させたとも指摘されている。御母衣湖沿いの国道156号には荘川桜が移植されて観光スポットをなっている。 しかし、それと並行して、伝統的な家屋形式をこれ以上失ってはいけないと、近隣住民を中心に文化遺産保存の機運が高まることになる。五箇山では1958年(昭和33年)に3つの民家(村上家住宅、羽馬家住宅、岩瀬家住宅)が国の重要文化財に指定され、1970年(昭和45年)には相倉集落と菅沼集落が国の史跡となった。 白川郷でも住民たちから集落を守ろうとする動きが起こり、1971年(昭和46年)には「荻町集落の自然環境を守る会」が発足し、野外博物館「白川郷合掌村」も生まれた。そして、1975年(昭和50年)の文化財保護法改正で伝統的な集落や街並み(伝統的建造物群)も保護対象になったことを踏まえ、翌年に荻町集落の重要伝統的建造物群保存地区選定に漕ぎ着けた。「荻町集落の自然環境を守る会」では、合掌造り家屋について「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を掲げ、保存活動を行っている。
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