保存と調査の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:28 UTC 版)
正法寺古墳の墳丘やその南側の地域は、江戸時代から肥料や焚きものに利用する下草や落ち葉を採集する乙川村の入会地となっていた。1907年に古墳周辺の土地は正法寺に寄付されるが、墳丘部分は松林で、戦前ごろまで近隣住民が落ち葉の利用権を入札で決めていたという。墳丘が開墾を免れたのは入会地であったことが大きいと思われる。 古墳周辺は昭和初期に吉田公園として整備された。しかし1959年の伊勢湾台風で大きな被害を受け、その後公園は放置され、草が生い茂り安易に墳丘に近づけない状況となっていた。 1989年に吉良町教育委員会が竹下内閣の「ふるさと創生事業」の一環で(正法寺)古墳公園として再整備を行った。西尾市(吉良町)教育委員会では、今後史跡指定地内の公有地化を行い、史跡整備事業の実施を計画している。整備にあたっては三河湾を望む古墳の景観と、里山的な雰囲気を残すことを基本に進める、とする。 本墳が古墳として広く認識されるようになったのは、小栗鐵次郎の調査による。墳丘測量図が作成され、全長89mの前方後円墳として紹介された。 墳丘測量図は1985年に改めて作成。2001・2002年度に吉良町教育委員会が史跡の範囲および内容確認のため、墳丘の再測量と発掘調査を行った。測量はラジコンヘリコプターの空中写真測量により、発掘調査は墳裾推定地や墳丘斜面に設置した計11本のトレンチによる。
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