保存と移転を巡る展開(1989-2008)
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「旧鳥羽小学校校舎」の記事における「保存と移転を巡る展開(1989-2008)」の解説
1989年に平成の時代に入ると、モルタルの剥離や雨漏りが目立つようになり、校舎の建て替えが検討された。2000年(平成12年)7月16日には市の計画が具現化する前に、住民の要望を行政に届けようと「ボランティアで創る鳥羽小建設を考える会」が初会合を行い、校舎の良い点と悪い点が列挙された。2002年(平成14年)12月、鳥羽市は校舎の改築を打ち出したが、その後の調査で設計者が清水栄二であることが判明し、PTAや同窓会は現校舎を保存し、よりよい場所へ新校舎を建設し、移転するよう声を上げた。 2003年(平成15年)の時点では、市側は適当な校地を確保できないとして改築の姿勢を崩していなかったが、2004年(平成16年)1月8日の年頭記者会見で井村均市長が用地交渉中であることを公表した。この時の予定地は鳥羽一丁目の神鋼電機(現・シンフォニア テクノロジー)鳥羽工場敷地の一部であり、土壌調査まで行われたが、反対の声が上がり、6月に白紙撤回された。これに代えて、2005年(平成17年)1月に東急不動産が所有する小浜町のホテル跡地が候補に挙がったが、これも市民の賛同意見が少なく断念された。この頃の校舎は雨漏りが激しく、3階の講堂や教室では、バケツで雨水を受け止めて凌いでいる状態であった。2006年(平成18年)3月になって堅神町の民有地が選定され、ここで決着した。 移転地が決定すると、校舎の保存・解体問題が再燃した。2007年(平成19年)5月9日には「鳥羽小現校舎の保全活用を進める会」が校舎保存を求めて市長に要望書を提出、2008年(平成20年)6月2日には校舎保存を求める7,505人分の署名簿が市議会に提出された。同年12月1日、木田久主一市長は校舎の保存を正式決定したと発表し、12月22日に現役の校舎としての役割を終えた。80年使われたこの校舎からは約13,300人が卒業していった。この間、雨漏り対策や床の張り替えなど大小合わせて33件の補修が行われた。
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