伊原監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:25 UTC 版)
「オリックス・バファローズ」の記事における「伊原監督時代」の解説
2004年 後述する近鉄との球団合併問題が発生し、ブルーウェーブとしての最後の年となった。この年もチーム防御率5.66と投手陣が崩壊し、3年連続最下位に終わっている。特にダイエーには4勝23敗、うち後半戦は10戦全敗と大敗した。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である。後半戦で全敗したことについて、当時監督だった伊原春樹は「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。また、山﨑武司や川越英隆といった一部の主力選手と伊原との確執も囁かれていた。9月27日のYahoo! BBスタジアムでの最終戦は合併相手であり、こちらもこの試合が球団として最終試合となる対近鉄戦となったが、7-2で勝利している。 詳細は「プロ野球再編問題 (2004年)」を参照 6月13日、日本経済新聞により大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併が報じられ、球団合併を両球団が検討していることが判明した。以後、紆余曲折を経て12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった。なお、この時に選手分配ドラフトが開催され、選手の約半数(主には一軍戦力としては不要な選手)を新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。合併後の監督には、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年 - 1992年:近鉄、1994年 - 2001年:オリックス)が復帰。保護地域に関しては兵庫県を保護地域としてきた阪神タイガースとの兼ね合いもあり、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの保護地域である兵庫県と、近鉄の保護地域だった大阪府の両方を阪神タイガースとともに保護地域とするダブルフランチャイズの形が取り入れられ、神戸総合運動公園野球場と大阪ドームの両方を実質的な本拠地球場とした(専用球場の扱いについてはまとめて後述)。球団事務所については引き続き神戸市内に置くこととなった。
※この「伊原監督時代」の解説は、「オリックス・バファローズ」の解説の一部です。
「伊原監督時代」を含む「オリックス・バファローズ」の記事については、「オリックス・バファローズ」の概要を参照ください。
伊原監督時代(西武ライオンズ時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:36 UTC 版)
「埼玉西武ライオンズ」の記事における「伊原監督時代(西武ライオンズ時代)」の解説
2002年 開幕直後から首位を独走し、2位の近鉄・ダイエーに16.5ゲーム差をつける大差でリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズは巨人に4連敗を喫した。個人記録では10月2日にアレックス・カブレラが日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した。 開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく、札幌ドームで行った。これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。 西武は札幌ドームを翌2003年から準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。ところが2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムが2004年から北海道に移転することにより札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし、結局2003年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。 日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては日本ハムの札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合の後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた。 2003年 ダイエーと優勝を争ったが投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。シーズン終了直前に伊東勤が現役引退を表明し、同時に総合コーチから監督に昇格。伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。
※この「伊原監督時代(西武ライオンズ時代)」の解説は、「埼玉西武ライオンズ」の解説の一部です。
「伊原監督時代(西武ライオンズ時代)」を含む「埼玉西武ライオンズ」の記事については、「埼玉西武ライオンズ」の概要を参照ください。
伊原監督時代(埼玉西武ライオンズ時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:36 UTC 版)
「埼玉西武ライオンズ」の記事における「伊原監督時代(埼玉西武ライオンズ時代)」の解説
2014年 開幕から3連敗スタートで、5月5日に打線のテコ入れとしてエルネスト・メヒアを獲得。しかし、25日に両リーグ最速の30敗に到達するなど、最下位に低迷し、6月3日に監督の伊原が成績不振と右ひざ痛悪化のため、自ら休養を申し入れ、球団はこれを了承し、4日のシーズン53試合目の対DeNA戦後に伊原の休養と監督代行に打撃コーチの田辺徳雄の就任、チーフ兼バッテリーコーチの袴田英利をヘッド兼バッテリーコーチ、二軍野手総合兼打撃コーチの高木浩之を一軍打撃コーチ、二軍外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐の嶋重宣を二軍打撃コーチ兼外野守備走塁コーチとすること、27日に伊原からの申し入れによる正式な監督辞任と7月1日付での球団本部付アドバイザーへの就任を発表した(田辺の監督代行職はそのまま)。
※この「伊原監督時代(埼玉西武ライオンズ時代)」の解説は、「埼玉西武ライオンズ」の解説の一部です。
「伊原監督時代(埼玉西武ライオンズ時代)」を含む「埼玉西武ライオンズ」の記事については、「埼玉西武ライオンズ」の概要を参照ください。
- 伊原監督時代のページへのリンク