仏教および日本への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 14:37 UTC 版)
「サンスクリット」の記事における「仏教および日本への影響」の解説
仏教では最初、日常言語であるプラークリットを用いて布教を行っており、仏典もまたプラークリットでパーリ語仏典として書かれていた。しかし4世紀に入り、グプタ朝が学術振興を行うとともにサンスクリットを公用語とすると、他宗教との論争や教理の整備の関係上、仏教でもサンスクリットが使用されるようになり、また仏典がサンスクリットに翻訳されるようになった。この動きは特に大乗仏教において盛んとなり、以後大乗仏教はサンスクリット仏典が主流となっていった。この過程で、一時的に言語の混淆が起き、仏教混淆サンスクリットと呼ばれるサンスクリットとプラークリットの混合体が出現して仏典に一時期用いられた。 上座部仏教がプラークリット(パーリ語)の仏典を保持したまま東南アジア方面へ教線を伸ばしていったのに対し、大乗仏教は北のシルクロード回りで東アジアへと到達し、仏教の伝播とともにサンスクリットはこれら諸国に伝えられていった。ただし初期の漢訳仏典の原典はかならずしもサンスクリットではなかったと考えられており、ガンダーラ語のようなプラークリットに由来する可能性もある。しかし中国で仏教が広まるに従い、巡礼や仏典を求めて仏教発祥の地であるインドへと赴く、いわゆる入竺求法僧が現われはじめた。この時期にはインドの大乗仏教の仏典はほぼサンスクリット化されており、このため彼らによって持ち帰られた仏典の大半はサンスクリットによるものだった。5世紀の法顕や7世紀の義浄などが入竺求法僧として知られるが、なかでもこうした僧の中で最も著名なものは7世紀、唐の玄奘であり、持ち帰った膨大なサンスクリット仏典の漢訳を行って訳経史に画期をなした。彼以降の仏典訳は訳経史区分上新訳と呼ばれ、それ以前の鳩摩羅什らによる古い、しばしばサンスクリットからではない旧訳と区分されている。 日本へは中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は遅くとも真言宗の開祖空海まではさかのぼることができる。仏教用語の多くはサンスクリットの漢字による音訳であり、"僧"、"盂蘭盆"、"卒塔婆"、"南無・阿弥陀・仏"などがある。"檀那(旦那)"など日常語化しているものもある。また、陀羅尼(だらに、ダーラニー)、真言(マントラ)は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する(泉鏡花「高野聖」など)。卒塔婆や護符などに描かれる文字については梵字を参照。日本語の五十音図の配列は、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列に影響を受けていると考えられ、サンスクリット音韻学である悉曇学に由来するとされる。 「五十音#歴史」も参照 こうした仏教とのつながりのため、明治以後、日本でのサンスクリット研究は仏教学と深く結びついてきた。1876年には真宗大谷派の南條文雄がインド学研究のためオックスフォード大学に派遣され、1885年に帰国すると東京帝国大学で梵語講座を開設し、以後いくつかの大学でサンスクリットが教えられるようになった。
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