今井家の人々
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京都の豪商で、呉服屋と両替屋を営む。幕末の混乱期を乗り切り今井銀行を設立する。 今井はつ(いまい はつ) → 眉山はつ(まゆやま はつ) 演 - 宮﨑あおい(少女時代:守殿愛生) あさの2歳年上の姉。今井家の長女。 箏と裁縫が得意。奥ゆかしく聡明でおっとりしているが、あさと同様に、自分の信念を曲げない頑固な一面もあり、不満や悩みも一人で抱え込んでしまう傾向がある。 1865年の春に眉山惣兵衛と結婚した後は、菊の嫁いびりに耐え続ける生活を送る。1868年、山王寺屋廃業による夜逃げの最中、惣兵衛に包丁を向けられた菊を庇い、右腕に傷を負う。その後、流れ着いた農家の手伝いをするなか妊娠が判明。 1870年、たまたまあさを訪ねた白岡宅で産気づき、長男・藍之助を出産する。一家で和歌山へ移転後、次男・養之助が誕生する。 1886年、菊、藍之助と共に加野屋を訪れ、あさと再会し、お互いに思い通りにならない子育てのことなどを話し合う。 菊曰く、2人の男の子を育てているうちに、肝っ玉母ちゃんになっている。 広岡浅子の姉・三井春がモデル。史実上の春は婚家の家業の破綻後27歳で早逝しているが、脚本を手がけた大森美香は週刊現代2016年3月26日・4月2日号において、原案本には晩年の春についての描写が無いため、どこかで元気に暮らしていると解釈して話を膨らませた旨を述べている。 今井梨江(いまい りえ) 演 - 寺島しのぶ あさの母。夫に従順な良妻賢母。 娘たちが嫁入りした後も様子を見に行ったり、倒産したはつの嫁ぎ先に東京への転居直前に眉山家の再出発の願いを込め、和歌山の土地の権利をはつに譲ったりするなど面倒見がよく、責任感も強い。 体調不良の夫・忠興の看病をしているうちに、体調を崩す。眉山菊の葬儀の後に駆け付けたあさやはつや、今井家の家族に見守られながら息を引き取る。 今井忠興(いまい ただおき) 演 - 升毅 あさの父。今井家の当主。時代を見る目に優れ、商才の持ち主。生真面目で厳格。口癖は「こらっ、あさ!」。 躾には熱心で「女には学問は不要で嗜みが重要」との考えのもと、はつを自慢の娘と誇っている。 はつ・惣兵衛夫婦から山王寺屋を救うべく借金を依頼された際には、返済の目処が無いために貸付を断る。 お転婆なあさに対しては厳しく接するが、本心では商売人として活躍しているあさを応援しており、加野屋に嫁入り後、正吉のあさの人柄を認める言葉を聞いて感涙する。 1868年、今井家を新政府公認となるまで押し上げる。新政府の強い勧めで銀行開設するため、忠政の他界後に一家で東京に転居する。 1878年(明治11年)、牛鍋屋にてあさと再会し、銀行経営の難しさなどを語り合い、あさを一人の商売人として認める。 1887年(明治20年)、東京で開いた祝賀会にて孫の千代に初めて対面する。 引退後、体調不良で梨江の看病を受けていたが、梨江に先立たれる。幼少時に学問を禁じたことをあさに詫びて和解し、女子大学校の建設予定地にと目白の今井家別宅の土地5,500坪を寄付することを申し出る。 養之助に新兵証書が届いてから数日後の1896年(明治29年)10月4日に死去する。今井銀行初代頭取。 遺品の中にテケツを収集した記帳が見つかり、同じくテケツを収集しているあさに形見分けされる。 今井忠政(いまい ただまさ) 演 - 林与一 あさの祖父。今井家の前当主。あさが11歳の時点では、嵯峨野で隠居生活を送っている。 「あさを男として育て家業を継がせて嫁を迎える」と発案するなど柔軟な考えの持ち主で、あさの考えに理解を示す。 加野屋が買い取った九州の炭坑がやっと動き出した頃、今井家の人々に囲まれて天寿を全うする。 今井久太郎(いまい きゅうたろう) → 今井忠嗣(いまい ただつぐ) 演 - 興津正太郎(少年時代:二宮輝生) あさの弟。幼い頃より家業の後継者として、父から厳しい教育を受ける。姉ふたりのことをあさ姉・はつ姉と呼んでいる。 五代に強い影響を受け英語を学び、アメリカに留学する。1878年(明治11年)の時点では帰国し、初めて東京に来たあさと再会する。 刺傷を受けて入院中のあさに面会に来た時点では、家督を継いで今井家の当主となっている。 今井とわ(いまい とわ) 演 - 佐藤都輝子 忠嗣の妻。はつ・あさの義妹。
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