事業の急拡大
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「豊橋電気 (1894-1921)」の記事における「事業の急拡大」の解説
1907年に見代発電所建設のための増資を実施した際、日露戦争後の不況期に重なったため増資に応募する地元資産家が少なく、やむを得ず豊橋以外の地域からも出資を募った。その結果役員も増え、1908年7月福澤桃介(東京)・武田賢治(宝飯郡国府町)・徳倉六兵衛(幡豆郡一色村)・荒川寅之丞(海西郡十四山村)の計4名が取締役に追加された。増員取締役のうち福澤桃介は新規参入者の代表格であり、株式投資で得た資金を電気事業へと投資しつつあった中で創業者の三浦碧水に誘われ豊橋電気にも出資し、当時筆頭株主の地位あった。福澤は3代社長伊東米作(1909年就任)に代わって1910年(明治43年)4代社長に就任し、1912年まで社長、それ以後は専務取締役として三浦の要請で経営改革にあたった。なお福澤は豊橋電気への参入後に名古屋電灯でも株式買収に着手し、その筆頭株主となって1910年より取締役に就任している。 1908年11月、豊橋市の南に接する渥美郡高師村に陸軍第15師団が設置され、次いで翌年4月騎兵第4旅団も迎えた。師団・旅団に所属する歩兵・野砲兵・輜重兵・工兵・騎兵諸隊その他の駐屯により豊橋市は軍都へと姿を変え、同時に消費地としての性格を強めた。豊橋の軍都化は電灯・電力需要の増加をさらに加速させる。豊橋電気では1909年(明治42年)下地町に火力発電所(下地発電所・出力150キロワット)を新設して急場をしのぎつつ、南設楽郡長篠村(現・新城市)にて寒狭川を利用した長篠発電所を新設すると決定。1910年12月27日、傍系会社「寒狭川電気株式会社」を資本金50万円で設立し、同社を通じて長篠発電所を起工した。 翌1911年(明治44年)5月10日、豊橋電気は寒狭川電気を合併し、資本金を倍額の100万円とした。長篠発電所の工事は合併で豊橋電気へと引き継がれ、1912年(明治45年)2月出力500キロワットの発電所として竣工に至った。長篠発電所完成に伴い同年5月料金改定を実施し、16燭灯月額75銭などと減額。さらに供給力の余力が生じたことから豊橋・下地・高師の3市町村を越えた供給を試み、1911年10月から宝飯郡小坂井村・牛久保町・豊川町(いずれも現・豊川市)にて、1912年4月からは渥美郡二川町(現・豊橋市)および南設楽郡新城町(現・新城市)にて供給を開始。1912年(大正元年)12月には宝飯郡国府町・御油町・赤坂町(現・豊川市)方面でも開業した。これらの結果電灯数が急増し、1910年下期に1万灯を越えたのち、1912年下期には2万灯台に到達した。 豊橋電気の勢力は県外にも拡大した。豊橋の東、静岡県浜名郡新居町における「西遠電気株式会社」の設立である。新居町や白須賀町など浜名湖西部の地域(現・湖西市)では地元有志によって1910年から電気事業の準備が進められていたが、予定していた火力発電よりも受電が有利との判断から豊橋電気と交渉し、電力供給と福澤・三浦ら同社関係者の発起人加入を得た。1912年5月18日、資本金6万円で西遠電気は発足。豊橋電気から受電により1913年(大正2年)1月1日開業し、新居町などへ供給を開始した。
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